カテゴリー「雑記」の62件の記事

2008年7月 1日 (火)

デンデケデケデケの続き

 みのる君が高校進学後、しばらく経って、中学校時代のクラスの同窓会が開かれた。3分の2は高校進学、残りは就職の時代。「青春デンデケデケデケ」の時代に近い。ベンチャーズばかり聞いていた時期。ドラムに夢中だった頃。映画に出てくる手作りドラムは立派なもので、みのる君は専ら椅子をスネアドラム代わり、のこぎりをシンバルに見立てて練習していた頃だ。

 クラス会では先生を囲んでお互いが近況を報告し合ったが、まさか余興があるとは思わなかった。クラスの不良共がすっかりベンチャーズにかぶれてバンドを結成、そのお披露目の日でもあった。先生は屈託無い。音楽が更生に一役買ったとは思えないが(高校進学後も時々彼らの武勇伝が耳に入っていたし)、連中は大真面目だった。しかし、演奏は酷かった。音ばかり強烈。学校中に鳴り響く。「デンデケデケデケ…」はトレモロになっていないから騒音に近い。一応メロディにはなっているけれど、リードギターもサイドもベースもドラムも全てバラバラ状態。それでも連中は一生懸命だった。見事な一体感を演出した映画「青春デンデケデケデケ」とは大違いだったが、みんな大喜びだった。みのる君も拍手喝采さ。映画に描かれた青春と同じ。ベンチャーズの影響はもの凄かったと思う。

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2008年6月23日 (月)

オリエンテーリング

 70年代半ばだったかな、地図とコンパスを頼りに決められたポイントを順番に通過し、タイムを競うオリエンテーリングがブームになった。みのる君の住む自治体も右へならえとばかり、参加者を募って大々的に実施した。地図を読む力が要求されると云うので、興味を持ったみのる君も仲間を誘って参加したが、意外に他愛無いゲームだった。主催者も初めての経験だった所為かしら、コンパスなんか無用、地図を見れば大体のポイントが分かってしまう。それでも、大袈裟な開会セレモニーやら閉会式やらで盛り上がり、ゲーム中は仲間たちと夢中になり、疲れては一服を繰り返しながら、山野を走り回った。初心者向けだったかしら、みのる君のチームはあっけなく上位入賞。確か、賞状と記念品のタオルを頂戴したと思う。その後も自治体主催で何度も開催されていたが、いつしかブームも去って、自治体主催も姿を消してしまったかしら。みのる君は諸般の事情で、結局、第一回しか参加出来なかった。

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2008年6月22日 (日)

夏場の保冷倉庫

 夏の暑い盛り、半日保冷倉庫で仕事をしたことがある。保管されている製品の在庫確認作業。倉庫内は一定温度が保たれており、蒸せるような外気とは大違い。今のようにエアコンが普及していなかった時代だから、この作業は実に快適だった。冷蔵庫と同じような温度だから、寒い位。仕事を終え、秋葉原の倉庫会社を出てから総武線に乗った。電車内は扇風機が回っており、満員の乗客は汗だく状態。そんな中で、みのる君の身体は冷え切っていたから汗一つかかなかった。文字通り涼しい顔して電車に揺られていた。夏になると思い出すみのる君のエピソードの一つ。

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2008年4月20日 (日)

ムスタキコンサート

 ムスタキが日本でコンサートツアーを行った際、みのる君には珍しく女性に誘われてコンサートを見に行った。同年代の女性ながら独身でない。コンサートに亭主でなく、何故、みのる君を誘ったのか。謎のままだったが、特別の意味は無かったのだろう。電話口で泣かれてしまった事もあったけれど、意気投合しており、結構、仲の良いお友達だったと思う。日本でちょっとしたブームを呼んだムスタキ。革新系の彼女が好みそうな歌手だが、みのる君には似合わない。でも、折角の機会だから、ちゃんとエスコートして、颯爽と出掛けたものさ。しかしながら、コンサートが苦手なみのる君(帰りの混雑が嫌い、無理に盛り上げようとする演出が嫌い、じっと座って音楽を楽しむ空気でない等々の理由)だから、会場の印象は残っていない。何となくフランス語で甘美な曲を聴いたと云う程度。

 その後、彼女とは随分と会っていない。何年か前、みのる君の親戚の葬儀に焼香に訪れたので、ビックリした。従姉に聞けば仲の良いお友達の由。世間は狭いなと恐れ入った。

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2008年4月19日 (土)

日野皓正コンサート

 東海ニ君の趣味に付き合って初めてコンサートなるものに足を運んだのが、日野皓正コンサートだった。当時、映画音楽でも活躍しており、評判のコンサートだったかと思う。積極的だったジャズ好みの東海ニ君に比べ、ロック派のみのる君はあまり乗り気ではなかった。だから、何となく引っ張られて行った観もあって記憶にほとんど残っていない。会場の盛り上がりも記憶にない。日野のトランペットより、むしろハイテンポなドラムばかりに耳を傾けていたと思う。東海ニ君は音楽面で当時の学生気質を体現していたのだろうな。彼に連れられてジャズ喫茶にも随分通った。強烈なボリュームのフォービートを聴きながら、コーヒーを味わう。東君得意のスタイルだった。後年、かのジャズ喫茶が健在だったので、カミサンと入ってみたら、客の顔を見てから古いレコードをセット、キズ付いたレコード盤の音を平気で流す店主に呆れてしまった。

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2008年4月18日 (金)

米穀通帳

 先般、金融機関の偉い部長と景気の話や時事問題を論じた折、話は勢いで昔話に及んだ。みのる君は小学校の修学旅行にお米を持参した記憶があるが、部長は如何に。ほぼ同世代ないしは若干先輩かと思って訊ねたが、そんな経験は無いと云う。みのる君の記憶が正しければ、小学校の修学旅行には自分用の米を持たされたはず。一合か二合だったかは覚えていないが、皆が持参したはず。いやいや、そんな経験はしていない。歳を確認すると、みのる君より少し若い。わずかの差でお米の持参制度が無くなったか。

 東京に初めて下宿した時は、お袋が米穀通帳を用意した記憶がある。米穀通帳をご存知か。くだんの部長はそれも知らないと云う。金融機関本店の部長職ともなると庶民の暮らしに疎いのか。そんな事は無い。自らが育った場所は山間部。米だけは困らない農家育ちながら現金収入に乏しく、サラリーマン生活を羨んだと云う。米に不自由していない生活では米穀通帳なぞ無縁だったのだろう。いや、そもそもそんな通帳の存在すら知らないと云う。みのる君だって、うっすらした記憶しかないが、配給制度から自主流通米への変遷位は承知している。年齢のギャップか不勉強か。みのる君は鼻白むばかり。帰宅してカミサンに問えば、やはり米穀通帳に記憶は無い。歳若くして独立独歩の人生を歩んだカミサンは、案の定、生活に無頓着、無配慮だったみたい。

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2008年4月16日 (水)

無邪気なトンネル作り

 子供時分、近所に一角がちょっとっした崖のようになっていた空き地があった。その崖に悪童共と横穴を掘ろうと云う壮大な計画が持ち上がって、みんな夢中になってトンネル作りに精を出した。結構、深くまで掘った記憶がある。数日かかったかな、子供数人が前屈みで入れる程の大きさの穴が完成した。早速、女の子たちも混じって、各自、家から適当なお菓子を持ち込んでの完成祝い。ワイワイガヤガヤ、賑やかに祝賀会を催したと思う。大人たちは全然気付いていなかった。つかの間の非日常。

 思えば無邪気で無茶な遊びだった。万一、作業中に地盤がゆるんで崩れていたら、新聞沙汰になっていただろう。土地の持ち主が管理不行届きで非難されたかも知れない。子供たちの腕力で穴が掘れた位だから、元は肥沃な農地だったに違いない。やがて、そこは建設資材置場になり、その後、豪華な住宅が建ってしまった。

 みのる君が幼い頃、家の裏の田圃で牛が耕す様子を見ていた覚えがある。みのる君が通った中学校が建設される前の荒地も記憶にある。そんなに古い時代ではない。町中に住んでいたけれど、周辺には田畑が残っていた。道行く馬の姿も覚えている。馬の糞を踏むと背が高くなるとか云った俗信に耳を傾けていた時代。いつの間にか自由に遊べる空き地も無くなってしまった。近所で子供等の賑やかな声も聞こえなくなってしまった。

 マンガに描かれる空き地には何故かしら、しばしば土管が登場する。懐かしい光景に違いないけれど、あれは一気に高度成長を成し遂げた戦後の象徴かしら。土管に入って遊んだ記憶もあって違和感は無いけれど、作者のノスタルジーかな。

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2008年4月13日 (日)

みのる君の絵心

 みのる君が小学生の時分、図画の時間にオーケストラの絵を描かされた。たまたま学校にオーケストラがやって来た後だったと思う。体育館でのコンサートの感想を絵に求めたのだろうね。クラスのほとんど全員がオーケストラの全体像を一生懸命に描いていたが、みのる君だけは元来のへそ曲がりで、バイオリン奏者を画用紙の中央に大きく描いた。多分、チマチマ描くのが面倒だっただけだろうと思う。ところがその後、他の連中の作品は戻されたのに、みのる君の絵だけが返って来ない。不審に思って先生に質すと、大層出来が良かったらしい。校長室に飾っておくことになったと云う。視点が大胆と評価されたみたい。光栄の至りかな。校長室に呼ばれた悪い連中がみのる君の作品を確認してくれた。教室に戻って来るなり、みのる君の絵が飾ってあったぜ、と有難い先鋒の報告を受けた。結局、みのる君の作品は校長室を訪れる父兄や悪童の目に晒されながら、卒業まで丁寧に扱われた次第。

 中学時代、校舎の屋上で風景画を描く授業があって、これもクラスの大方が遥かに望む山々を画用紙に写し取っていたが、みのる君は校舎北側にある民家の屋根と庭を俯瞰して描いた。これもみのる君の偏屈な視点を認めてくれたのかしら、しばらく手元に戻って来なかった。やはり校長室へ行ってしまった。

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2008年3月16日 (日)

母とドライブ4000㌔

 父を失った母を気分転換を兼ねてドライブに誘い、およそ半年間で4000㌔も走り回った。

 海を見たことのない母を日本海まで引っ張り出して海水を味わって貰ったり、若山牧水の詩碑、志賀直哉の文学碑、藤村詩碑を廻ったり、松本城を訪ねてみたり、カミサンの実家まで案内したり、一日に500㌔も走ったこともあり、盛り沢山の計画だった。あらかじめ「あちこちドライブ計画書」を作って、「日本海を見よう」とか「何もないけれど奥只見へ行って見よう」などと目的をはっきりさせて、母に提示。ついでに大きな地図を買って、毎回戻ってからドライブしたコースを地図上に描いて、どうだ、参ったか、随分と走ったぞ、なんてドライバーの腕を自慢しながら、一人暮らしの母の話し相手になって、一時を過ごした。初めて観る名所旧跡もあって、その都度、父も一緒だったら良かったとこぼしていた。父の事が常に念頭にあったようだ。

 週末のドライブ当日の朝、実家を訪ねると、いつも準備万端整えた母が待っていた。息子が連れ出してくれるのを楽しみにしていたのだろうか。それとも気兼ねや遠慮もあったか。

 すっかり老いてしまった母との思い出。あちこちドライブ4000㌔から3年後に、母は父と同様に呆気なく逝った。幕切れは一瞬。別れの挨拶も出来ず仕舞いだった。独立独歩、わが道を歩んでさっさと幕を閉じてしまった。静かに眠り、そのまま目覚めぬ朝を迎える。羨ましい死出の旅かも知れない。

 「後期高齢者」なんてカテゴリーが生れた。原資が乏しいからと云って、訳の分からないカテゴリーを作り出すことはない。「後期」とは何ぞや。何を以って「後期」と決め付けるのか。おかしな区分だ。戦後の混乱期を懸命に生きた人々が専らその範疇に入る。戦後を必死に生きた人々に向かって、後期高齢者では失礼だろうと思う。命名者のセンスが疑われるってものだ。

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2008年3月12日 (水)

自宅から通学

 下宿探しの費用で遊び呆けたみのる君は、しばし自宅からの通学を余儀なくされた。親も甘くないと云うことだが、身から出た錆ながら都心の学校までの電車通学は骨が折れた。電車で移動した距離はゆうに4万㌔を超えた。が、これも良い経験。朝一番の電車で通い、最終で帰宅することもしばしばあった。帰るのが面倒な時は友達のアパートに厄介になり、ひどい時は一週間程度も家に帰らず、着た切り雀状態も気にならず、友人の下宿を転々としていた。思えば乱暴な時期だった。親もあきれ返っていたに違いない。授業に顔を出していたとも云えず、専ら喫茶店で仲間たちとの論争を楽しんでいた。それとパチンコ、ビリヤード、麻雀にも凝っていた時期。自分の息子に説教出来る身分ではないかも知れない。

 4万㌔を超える電車通学のお陰で、少々の長距離旅行は苦にもならなかったが、いつの間にか電車とは縁遠くなり、近頃は電車の乗り方すら忘れてしまったみたい。移動は車に限る。時が経つと自然と無精になってしまうものかも知れない。

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2008年3月 8日 (土)

夜行列車で広島旅行

 学生時分のこと。下宿を変えたいと親に申し出て新居探しの軍資金を借り、その金を持って広島まで遊びに行ってしまったことがある。広島の実家に帰る友人にお供して、一宿一飯の恩義に与る計画。

 午前の東京発の急行に乗って、夕方に京都着。そこで広島方面行きの夜行列車に乗り換える予定だったが、出発までたっぷり時間がある。折角の京都だから、何処かで呑もう。当時、京都岩倉に住まいしていた東海ニ君を駅まで呼び出して、東寺周辺の飲み屋で再会を祝して乾杯。突然の訪問で海ニ君は驚いていたが、普段からみのる君の破天荒な行動を承知していた海ニ君、同行の友人とも意気投合して、大いに盛り上がった。列車の出発時間を気にしながらも、三人で賑やかな一時を過ごした。これから、広島くんだりまで出掛けるけれど、帰りに又寄らせて貰うね。帰路も京都で途中下車して海ニ君に厄介になる手筈を整えて、再び列車に乗り込み、翌早朝、山陽の山あいの小さな駅に到着。東京から遥かに離れた地。こんなに遠く離れた場所から上京する友人の根性には感心しきりだった。

 ここで暫時逗留して、広島の原爆ドームや安芸の宮島等を案内して貰った。後年、仕事で二度程広島を訪ねたが、移動は毎回新幹線。仕事ともなれば一昼夜を棒に振るような贅沢は出来ないね。帰路は約束通り京都で途中下車、海ニ君の下宿に世話になって、あちこち京都見物させて貰った。

 家に戻ってから、勿論、親に叱られた。改めて下宿探しの費用は用立てしない、下宿暮らしは諦めろと宣告され、以後、実家から通学の羽目となってしまった。

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2008年3月 3日 (月)

就職活動

 みのる君が就職活動の年は、前年までの売り手市場が一変して、買い手市場になってしまった。状況が様変わりして、不運不幸を味わった連中が多かった年だったかと思う。みのる君は、と云えば比較的冷静沈着、泰然としていた。いや、むしろ無頓着と云うべきか。積極的に会社訪問する気になれず、一発勝負で報道機関等を受験。相手の都合で不採用となったり、逸材を採用する太っ腹がいなくて断られたりしても一向に慌てず、毎日松尾芭蕉に没入していた。

 秋口になっても事情は変わらず。仲間たちはほとんど進路が決定しているのに、みのる君のみ自若として意に介さずの姿勢を保っていた。親は倅の行く末に口を差し挟むこともせず、静観していた。それが幸いしたか災いだったか、身の処し方は宙に浮いたまま季節が移ろった。結局、社会人第一歩は不本意な形で始まり、以来、幾つかの仕事を身に付けながら年を経てしまった。これも人生さ。

 背伸びや見栄っ張りなんか不要、規模の大小や給料の多寡なんかに拘泥することはない。自ずから道は開ける。採用する立場となって新卒者と接する機会が多くなったが、大抵うわべは面接官に見透かされてしまうし、型通りの返答は苦笑を誘うし、要は素直に自分をプレゼン出来れば良し、誰だって一度や二度の面接で相手の全人格なんか理解出来やしない、無理をしなさんな、と思う。もっと新聞を読んだ方が宜しい。しかも、複数の新聞を。事件一つを取っても新聞社によって扱いは違うぜ。何故、扱いが違うのか。新聞社の事情ってものに考えを及ぼす事が大事さ。色々な視点で物事を見ること、考えることが大事だろうと思う。それが、自ずと行動や言動に表われてくる。

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2008年2月20日 (水)

かばん

 みのる君は意外に神経質な所がある。電車なんかに乗った時、滅多に網棚に手荷物は置かない。足元か膝の上に置いておく。盗まれて困るような代物は持っていないけれど、置き忘れの心配も少しはあるけれど、どうも荷物が手元から放れてしまうと落ち着かない。

 網棚にかばんを置く。仮に悪意を持った人がこのかばんを持ち去ろうとしたら、どうしよう。こら、俺のかばんをどうするつもりだ、なんて一喝するだろうね。けれど、相手が開き直って、これは自分のかばんだと主張したら、どうなるだろうか。衆人環視の中、どちらに分があるだろうか。他人様から見れば、ごく自然に網棚の荷物を手にした人の方が持ち主に見えて、一喝したみのる君の方が怪しいぞ、と思われる可能性は十分にある。

 自分の所有物を客観的に証明しなければならない状況って、日常生活でも起こり得る。そんな状況を作って問題提起したのが、稲みのる君が同人誌に発表した処女作「かばん」。案外、好評だったぜ。

 以来、「かばん」の怖さも手伝って、網棚に荷物を預けづらくなってしまった面もある。

 このブログの左サイドにある「プロフィール」の下の「暗礁ホームページ」をクリックすると、若干内容が分かります。

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2008年2月19日 (火)

父の小説

 みのる君の父君は生涯文学青年を通した。みのる君が若い時分、一度だけ父君は新潮社の新人賞に応募してノミネートされた。ついては若干内容について再検討をお願いしたいので上京して貰いたい。父は編集者の要請に快く応じて、みのる君を案内係に指名して揃って新潮社を訪問した。みのる君は父を残してさっさと新潮社を離れたが、父君は夜まで、たっぷりと編集者にあれこれ作品の不備を指摘されて修正を余儀なくされたそうだ。正しい指摘もあったようだけれど、要は編集者の視点が多く採用されて、本人の意に反する訂正も多々あったご様子。不承不承の納得もあったみたい。すっかり外が暗くなった頃、みのる君は父を迎えに新潮社に戻った。それから二人して食事、家に戻ったのは夜中の2時近かった。

 その年の新潮社新人賞は該当なし。最終候補作品として父の小説が「新潮」に掲載された。父の華々しい一瞬だった。

 みのる君の女友達の名前が主人公の名前に使われており、彼女からどう云う事よ、なんて詰め寄られた覚えがある。親父の洒落じゃないの。みのる君も父君に問い質したが、偶然の一致で片付けられてしまった。

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2008年2月18日 (月)

日本ファンタジーノベル大賞

 一昔以上前、一念発起したみのる君は300枚の大作をモノにした。長年想を練っていた題材だったから、短時日で書き上げられた。追い込みの頃は週末の徹夜もしばしば。まさに一気呵成だった。賞金目当てと云うささやかな夢を秘めて、かつ意気揚々とこの自信作を日本ファンタジーノベル大賞募集受付係に送った。

 結果は、勿論、外れ。推敲不足もあったかななどと反省もしたけれど、荒唐無稽が過ぎたか知れない。

 古墳時代に火山噴火で埋没した村落遺跡を発掘していた所、当時の古代人の骨に混じって、現代人の殺害されたと思われる成人男性の骨が見付かった。現代人と判定された理由は、骨折治療と虫歯治療の痕跡が残されていたからだ。発掘されるまで掘り返された跡も無く、何故、現代人の骨が埋もれていたのか分からない。明らかに鋭利な刃物で殺されたと思われるので、一応、事件性を疑って地元警察が捜査に乗り出した。

 事に始まりをかいつまんで説明すると以上の通り。

 更に不可思議な一点がある。骨と一緒に指輪も発見されていた。その指輪は、捜査に乗り出した日付より一ヶ月も先に発表される予定の斬新なデザインの指輪だった。つまり、千数百年前の遺跡から一ヶ月先の未来の指輪が見付かったと云う事実。指輪に刻まれた日付と名前を頼りに、警察は一人の人物を探し当てる。しかし、消息は不明。その人物を知る昔の友人知人を訪ね歩いて、彼の足跡を追う。と云うのは、指輪に刻まれた日付を信用するならば、彼は一ヵ月後に「殺害」されるはずだからだ。殺害されて千数百年前の遺跡に埋められてしまうのか、時間を超えて千数百年前に殺されてしまうか、いずれにしろ、今は生きているだろうこの人物を探し出して真相を究明しなければならない。

 こんな展開で物語が進む。思えば乱暴なファンタジーだね。古代史と推理小説ばかり読んでいると、根性が曲がってしまうのかも知れない。話の展開としてはユニークだったと思うけれど、いささかひねくれた論法が審査員のヒンシュクを買ったのだろう。

 物語だから、タイムマシンが出て来てもおかしくない。ただ、どうやってこれを発明したのかと云う点が理屈っぽくていけなかったかな。理屈を云えば誰だってタイムマシンを手に入れることが出来る。

 今の自分にはタイムマシンを発明する能力も資力もない。しかし、いつか必ず自分の子孫にこれを発明して貰おう。その為の努力は惜しまない。発明出来なくても、世間にこんな機械が普及する時代が来るだろう。そして、タイムマシンが完成したら、必ず自分を迎えに来い。この自分の強固な意思を子孫に受け継がせていく。わざわざ何年何月何日の何時何分と日時を指定して、自分の遺志を子孫に伝えていく。 たったこれだけの意志があれば良い。正しく意志が遺志となって未来に伝えられれば指定した時間に子孫が迎えに来る理屈となる。来なければ、あなたの信念が弱かったからだね。実は、若干論理的に矛盾があるけれど、物語だから大目に見て貰おうと云う魂胆…。

 物語はこの意思が見事に成就。彼が指定した日時に子孫がやって来る。彼は迎えに来た子孫のタイムマシンを使って、現在、過去を旅する事が出来た…。映画にヒントを得て着想した部分もあるけれど、我ながら上出来、募集締め切りが迫っていたので、見直すゆとりがなかった。後の祭りさ。みのる君の努力は泡と消えてしまった。それに、パソコンを買い替えた時データの一部を紛失してしまって、今やまぼろしの作品となってしまった。

 広大無限の宇宙には地球人が想像する宇宙人なんていない。巷間で噂され、目撃される空飛ぶ円盤は、きっと未来から来た地球人に違いない。空飛ぶ円盤はタイムマシン。そう考えた方が余程理に適っている。

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2008年2月 9日 (土)

有難い親切

 昔、友人の剣道の猛者と群馬県の西端にある妙義山を登ったことがある。奇岩が天を衝く山容が有名な山で、みのる君も猛者も若かったね、怖いもの知らずで奇岩のてっぺんまで登って万歳三唱。それから下仁田の方へ下ったが、途中で体力が消耗、二人してダラダラとバラス道を歩いていると、一台の軽自動車が脇に止まった。訝って車を覗き込むと、若い女性が運転しており、横にその母親と思しき年寄りが乗っている。駅まで送りましょうか。嬉しかったね。猛者もみのる君も辞退する理由はない。お言葉に甘えて、駅まで乗せて貰った。こう云う時に救いの手を差し伸べてくれるって非常に有難い。きっと母親が娘を促して情けない若者を救ったのだろうけれど、まだまだ、田舎には人情が残っていたね。

 同じ頃、東海ニ君と山に登った時も、通りすがりの車から乗せてやろうと声を掛けられた。一台だけでない、数台の車から有難い親切な申し出を受けた。県道沿いを歩いていたから、車の往来の邪魔になっていたかも知れないけれど、まだまだ、奇特な人が多かった時代。

 今でも、こんなふれあいは残っているのだろうか。みのる君自身、道路で草臥れている人を見かけても、声をかけようなんて気にはならない。善意を裏切る輩が跋扈するご時世、うかつに優しい手を差し伸べて居直られては危ない。そんな風に考えてもおかしくない時代なのかね。それとも、みのる君が冷淡なのかな。

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2008年1月30日 (水)

多重録音

 みのる君がドラムに熱中していた頃、一時、エレキギターとエレキベースが家にあったので、しばらく多重録音を楽しんでいた。住宅街のど真ん中で強烈な音を出していたから、近所のヒンシュクを買っていたと思うけれど、当時はお構いなしだった。反省しなければいけないね。

 専らベンチャーズのコピー。まず、ドラムでしっかりリズムを録音してから、今度はサイドギターの録音。続けて、見よう見まねでベース部分を入れてから、最後にリードギターの出番。出来上がってみると、何だか騒々しいばかり。多重録音と云っても、所詮は素人器材だから、低域が妙にこもってしまって音が悪い。通りを走る車の音まで拾ってしまって、ガッカリだった。

 その頃身に付けた音の編集作業が後になって、家族ビデオの編集やらパソコンでのムービー作りに役立っている。音にもこだわる耳も養った。とは云え、自宅には防音設備もないから、静かに音を楽しむ程度だけれど。

 苦心の多重録音テープは、いつのまにか無くしてしまった。残念でもある。

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2007年11月14日 (水)

一念発起の日本語教師

 70年代後半の頃だったか、アフリカはリベリア共和国で日本語教師を募集する広告が新聞に載った。どこが主催だったか記憶に残っていないが、確か、3月の終わり頃に東京で募集説明会が開かれた。みのる君は一念発起、海外で一旗あげようなんて想を練ってね、さっそうと説明会に参加したものだ。でも一人では心細いし、心許無いから、友人の東海ニ君を強引に誘っての参加だった。

 会場には結構大勢の希望者が集まっていた。こりゃ、狭き門だぞ。海外雄飛を夢見る同類の多さにちょっと驚いてしまった。さて、いよいよ具体的な日本語教師の募集要項等の説明が始まると、会場から矢継早の質問が飛び出した。ここで再び驚いたことに、質問は全て英語だぜ。迂闊にも、みのる君は英語の必要性にまで考えは及ばなかった。日本語を教えるのに英語が必要かいね。徹頭徹尾日本語を押し通せば済むかと思っていたが、浅はかだったね。短慮の極みさ。英語なんてまるで駄目なみのる君。海外飛翔の夢はあっけなく打ち砕かれてしまった。雌伏して時を待つか。

 せっかくの機会だったから、一応名前だけは登録して帰路についた。無理に誘った手前、東海ニ君に夕飯をご馳走して意気消沈の呈だったな。何で英語が必要なんだ。アルコールが入っても愚痴ることしきり。東海ニ君こそいい迷惑だっただろうね。

 その後、主催者から登録済の案内を頂戴したが、それっきりになってしまった。国情に無頓着の無鉄砲、浅薄な計画は頓挫してしまったが、その後、時折政情不安を伝える新聞記事を見ては、無茶しなくて良かったと東海ニ君と話題にしたものだ。

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2007年11月10日 (土)

素浪人時代

 みのる君は高校卒業後、一年程素浪人生活を余儀なくされたが、思えばこの一年は贅沢な時間だった。

 映画好きだったから、毎週欠かさず映画館に通っていた。硬軟取り混ぜて、何でも来いと云う感じだね。平日の場末の映画館の臭いをたっぷりと味わっていた。

 読書にも励んだ。漱石の小説は全て読破した他、川端文学やら谷崎、永井荷風、井伏に志賀直哉、三島由紀夫に江戸川乱歩、松本清張に田山花袋、有島武郎、倉田百三、芥川に阿部公房等々。次々と読み飛ばしていったお陰で、残念なことにほとんど記憶に残っていない。多分、栄養にはなったと思うけれど…。カタカナの混じる翻訳物(世界文学)は面倒くさくてほとんど読まず、嗜好は大いに偏っていた。

 同様に素浪人生活を楽しんでいた友人の東海ニ君を誘っては、あちこちの美術館や展示会巡りをやって、目を肥やしていた。いっぱしの絵画論を認めてお袋に売り付けたこともあるし、芭蕉論も冊子にまとめ、お袋に買い取らせたこともある。小遣い銭稼ぎだ。学生集会にも顔を出して、後ろの方でやんやの喝采を浴びせてもいた。七五調が面白くて、テレビで原作片手に歌舞伎を観ていた。運動不足解消に毎日の筋トレも欠かさなかったし、ドラムの練習も続けていた。胃袋もさんざん鍛えた。いくらでも喰えた時期だった。

 毎日予備校へ通っていたけれど、こちらは同類相憐れむの環境だから、面白くもなかったが、受験に関係のない数学や地学の授業は真面目に聴講していた(身には付かなかったことが悔しい)。男子高校で身についたバンカラ気質が災いして女性とお近付になる機会がなかった。痛恨の極みだね。

 学生でも社会人でもない中途半端な状態が意外に心地良くて一年中ふらふらしていたけれど、一応、毎晩の勉強も熱心だった。卒業した高校の模擬試験に参加したら、現役生のトップテン以内の成績を上げ、こりゃ東大合格間違いない、なんて図に乗っていた。現役時代は後ろから数えた方が早い程の成績だったから、一年間で身に付けた広範な知識欲と行動力がプラスに転じたのだろうか、一気にトップテン入りした時は驚いたものだ。大器晩成かな。この素浪人生活で体になじんだ自由精神が、後年の借金生活の元凶に変貌するとは思ってもみなかった。

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2007年11月 2日 (金)

丸の内勤務時代

 東京丸の内のオフィス街に勤務していた頃、住まいは環七と早稲田通りが交差する大和陸橋のすぐ脇にあった。金がないから安アパートで我慢の日々を送っていた。天下の環七の横だから、車の騒音やら排気ガスがひどいだろうなと思っていたけれど、案外、気にもならず、呑気に生活していた。もっとも、ほとんどアパートには寝に帰るだけだったから、意に介さなかったのかも知れない。西日の当たる部屋で、夏場は窓を開け放して寝ていたけれど、網戸がなくても、虫の闖入はなかった。虫も住めない排気ガス充満の地だったのだろう。早稲田通りから車一台も通れない狭い路地を入った奥にアパートがあって、引越し荷物を運び込むのに往生したものだ。ここから丸の内まで毎朝通っていたけれど、丸の内で不便なことと云えば、人口の割りに食堂が少ないことだった。勿論、大抵のビルの中にはいくつも食堂があったけれど、昼時はいつも超満員。何が嫌いだと云って、食堂の順番待ち程嫌いなものはない。順番を待つ列が出来る程の人気の店なんて、行きたいとは思わない。まるでお預けを喰らっているようなものだから、つい、やせ我慢をしてしまう。しかし、丸の内では他の店も同様に混雑しているから、諦めざるを得ない。毎回、しぶしぶ列に並んだものだった。あれから大分経つ。東京駅に「駅ナカ」が誕生した由。食堂事情は改善されたのだろうか。相変わらず、長蛇の列を競っているのかね。都会人は逞しいなと思う。

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2007年11月 1日 (木)

井の頭公園の思い出

 学生時分のある日、不美さんやカズさんや啓さんと云った仲間と西荻窪に住んでいた薫君を訪ね、みんなでにぎやかに呑んだ。すっかり酔っ払った頃、ふらふらと揃って井の頭公園まで酔い覚ましの散歩と洒落こんでね。真夜中の公園と云っても、都会だから明るい。ところが、呑んだ勢いもあったのだろうね、誰かが突然、泳ごうなんて云い出してね、図に乗るのが不美さんの欠点、早速裸になって、池に飛び込みやがった。続いて啓さんも薫君も二番手、三番手。止める間もないし、酔っているから、椿事は些事。ごく短い時間の出来事だったけれど、不美さんは素潜りまでしたから、頭に藻がべったりとくっ付いていた。酔っ払いは何をするか分からない。幸い、深夜で通行人もいなかった(と思う)。見付かれば大騒ぎになっていただろうね。悪いことをしたもんだ。後年、井の頭公園近くに住まいしたけれど、時々、珍事を思い出しては苦笑していた。馬鹿な連中さ。みのる君は冷静沈着冷淡薄情だから、そんな愚はやらなかった。

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2007年10月30日 (火)

帝国ホテルでパーティ

 数年以上も前になるけれど、東京の帝国ホテルで開いたパーティの裏方を引き受けた事がある。各界のお歴々も招待して300人も集まった盛大なパーティだった。

 案内状の作成、発送、出欠の集計に始まり、式次第の準備、挨拶文の原稿作りから、料理の手配、当日のスタッフの配置、受付手順、席順、名札の用意等々、大半をみのる君が準備。当日はスタッフにあれこれ指示し、受付の後ろで気配りさ。スタッフとは云え、その道では名だたる有名人ばかり。指示と云うかお願いだね、一つ宜しく頼みますと低姿勢での指示。関東近郊や関西方面からも大勢に客が集まり、にぎやかな催しは成功裡に終わった。

 が、実は帝国ホテルの料理なんて、滅多に味わえない。結婚した年のカミサンの誕生日に一度だけ泊まった事がある程度。その時は仕事を終えてから、急いでホテルに向かったものだから、慌しくてゆっくり食事を楽しめなかった。今回のパーティでは、是非、帝国ホテルの上品な味を楽しもう。なんてひそかに期待していたが、当ては外れるものだ。

 受付スタッフの一人が集めた会費を集計していたけれど、金額が合わないと云って、一生懸命数え直している。総監督としては、放ってはおけない。一緒になって勘定をやり直す羽目となった。役割の終わったスタッフ達はすでに会場に入ってパーティを楽しんでいる。時々、こちらを窺っては、料理を小皿に盛って気を遣ってくれたけれど、普段は手にしない桁の金額を勘定するのが一苦労で、折角のスタッフのご厚意を味わう間がない。一、二杯ビールを口にした程度。やっと勘定があった頃は、すでに締めの挨拶が始まっている。そろそろお開きだぜ。お客にはお土産を渡さなければならない。会場にいたスタッフも戻ってきて、土産の準備を始める始末。料理どころではなかった。見知った顔が何人も帰りがけにみのる君の労をねぎらってくれた。有難いね。

 後片付けをして、帰宅したのは深夜。疲れた一日だった。結局、帝国ホテルの料理は味わえず。帰りがけにホテルのコーヒーを一杯飲んだだけ。ちょっと悔しいパーティだった。

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2007年10月15日 (月)

ビリヤード

 一時ビリヤードに凝ったことがある。今時のポケットに球を入れるゲームでなく、四つ球と云われる基本的なゲームに夢中だった。市内の数少ないゲーム場の一軒に入り浸って、毎晩遅くまで楽しんでいた。深夜0時を回った頃、となりのスナックで軽い食事を済ませて帰宅する日々も多かった。店の壁に実力のある常連客の名札が実力順に掲示してあって、みのる君の名前も、いつの間にか中程に連ねるようになっていた。

 白い球二つと赤い球二つを使って遊ぶ単純なゲームで、手球の白い球を突いて、他の二つの球、三つの球にぶつけて得点を競う。簡単なルールながら、案外に奥が深い。球の突く位置によって、クッションに当たった後の球の向きが変わるのが面白い。いくつかの技も覚えて、結構のめり込んでいた。

 東京は下高井戸で友達を誘っては、昼日中からビリヤードに興じていたし、北海道を旅行した時は、わざわざ稚内まで出掛けて行って、ビリヤード場を探し歩いて、楽しんでいた。当時から関西地方はポケットが主流で、四つ球の台が珍しかったが、京都出町柳近辺でも友人の東海ニ君と遊んでいた思い出がある。

 息子が、何処で覚えて来たのだろう、高校生時分にビリヤードにハマッていた時期があり、一度お手合わせに及んだ事があった。この頃はすでに四つ球はすっかり廃れており、「ハスラー2」の影響を受けて、専らナインボールが主流になっていたが、昔取った杵柄を披露して、何とか父親の面目を保った。どうだ、参ったか。年季が違うぜ。

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2007年10月13日 (土)

腕時計

 四半世紀以上もの長い間、みのる君は腕時計をしていない。持っていない。無くても不自由していないし、でも、時間には几帳面でね、約束時間を違えたことはない。

 最近は携帯電話を持ち歩くから、それで時間は分かる。車に乗れば、室内時計で用は足りる。職場だって時計はあるし、パソコンでも時間が分かる。街を歩けば、店々を覗けば時計が見える。よほど困った時は近くの人に尋ねれば済む。

 時間なんかに縛られたくない。それが、第一の持たない理由。みのる君にとって腕時計には何の価値も見出さない。無用の長物とすら思っている。腕時計を持っているのに、平気で約束の時間に遅れて来る輩がいる。時計は飾り物かい。などと嫌味を云いたくなる。

 いちいち腕に回すのが面倒くさい。これが第二の理由。そして、若干皮膚が金属に弱いと云う言い訳みたいな第三の理由。一時慢性湿疹を患ったことがあって、かぶれやすい。

 普段、時間に追われる生活を送っているから、余計、時間に縛られたくないのだろうね。などと云いつつ、家には柱時計や電子時計、複数の目覚まし時計にTVに電話と、あちこちに時を知らせる道具がころがっている。腕時計だけが見当たらない。

 そう云えば、カミサンも腕時計をしていない。何故かな。時間にルーズな一面があるから、持っていても意味ないじゃん、と云う開き直った信条かな。二人で行動していても、時間が分からないと云った不便さを感じたことはない。カミサンは現在の時刻にあまり関心を示さない。今何時だいと尋ねると、何時かしらで終わってしまう。

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2007年10月 4日 (木)

バックで車庫入れ

 子供等が幼い頃、みのる君の一家は道路から奥まった所の借家に住んでいた。道路に面して南へ3軒の借家が南北に並んであって、その脇の車一台が通れる程度の狭い路地を入って、3軒目の借家の前を西に折れた奥の4軒目に住んでいた。道路から自宅まで、距離にして50㍍程かな。車の場合、途中に車をUターンさせる空き地がないものだから、入る時か出る時のいずれかはバックで進むしかない。借りる際に、これは面倒だなと思ったけれど、カミサンが気に入っていた(新築間もない借家だった)ので、まぁ何とかなるだろうと安易に借りてしまった。

 しかし、やっぱり毎日の車の出し入れには苦労した。朝の出勤時は慌しいから、悠長にバックで出て行く余裕はない。毎晩帰宅の際に、道路から50㍍をバックしながら、しかも途中を90度に折れて戻ると云う面倒な作業を繰り返す。手前の借家には車も駐車していれば、近所の子供の三輪車なんかも放り出されていたりして、余計に狭くなっている道路。いつも慎重さを要求されていた。ここで、およそ四年間、毎日毎日、50㍍のバック前進を強いられたおかげで、運転技術は随分と上達したと思う(腕には自信があったから借りたのかも知れないけれど)。

 家を新築の際、土地購入は「車の出し入れが楽な土地」と云う条件を最優先させ、おかげで今は車庫入れに何の苦労もなくなった。

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2007年9月30日 (日)

スカイライン

 カミサンが子育てに忙しい頃、みのる君は知人が乗り回していた日産のスカイラインを安く譲って貰って、走りを楽しんでいた。七代目のスカイラインGTパサージュ辺りだったかと思う。4WSで、実に快適だった。高速道路では、向かう所敵なしと云った走りを味わっていた。子供等を乗せると、加速の際に体に重力感をたっぷりと味わえるものだから、キャッキャッと喜んでいたもんだ。急峻な山道でも、けたたましい爆音を上げながら、スピードは衰えることはなく、安心して追い越しも出来たもんさ。勿論、運転技術は確かなものだから、無事故無違反だよ。

 7、8年位最高速度を堪能してきたけれど、ある日突然、ブレーキが故障。田舎道の交差点で一時停止しようとブレーキを踏んだ所、まるで効かない。一瞬蒼くなったね。幸い、他に車がなかったので事なきを得たけれど、前兆もなく唐突のブレーキ故障には参ったね。肝心のブレーキが役立たずでは信頼性ゼロだぜ。普段の燃費が悪い(せいぜい3㎞/ℓ程度だったかな)所為もあって家計に響くし、とうとう、みのる君はワンボックスカーに乗り換えてしまった。

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2007年9月24日 (月)

カミサンの貫禄

 この所、みのる君の係累をご紹介してきたが、肝心なカミサンが残っていた。実は写真が少ない。あってもひねくれた写真ばかり。幼い頃から整理は苦手だったとみえて保存状態が悪い。細かい事には無関心な性格が保管にも出ている。一昨日、NHKで叙情歌大全集を放映していた。カミサンはこの分野に滅法強い。TVにあわせて自慢の喉を披露してくれた。昔合唱団に所属していた由。オンチのみのる君とは大違いだ。子供等が幼い頃はよく大きな声で唱歌などを歌って聞かせていたが、案外、情操教育の一翼を担っていたのだろうね。この辺は脱帽さ。 H4

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2007年9月23日 (日)

 父の写真を公開したからには、母も紹介しなければならない。と云う理屈で、念の為に母にもご登場願った。ちょっと古い写真で保存状態も良好とは云えないが、あの時代の写真が残っていたのは奇跡かも知れない。新聞社の電話交換手として活躍していた時代。世相は太平とは云えない時代。良妻賢母が律儀な性格はみのる君に引き継がれた。と云っても義理堅い訳ではない。義理人情には比較的冷淡なのは、誰に似たのだろうか。

H2

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2007年9月22日 (土)

そもそもの出発点

 みのる君やその家族が今日生あるそもそもの出発点の一つは、みのる君の父である。まもなく誕生日を迎えるみのる君の父は知的生活を愛して生涯を閉じた。その父が母に求婚した際に使った粋な写真が残っている。この写真一枚で母の心を射止めたかは知らんが、母の了解が得られていなければ、みのる君は存在しなかっただろうし、その子供等も生を享受出来なかったはずだ。

T1  時代の空気に溢れた一枚の写真。父は生後間もなく貿易商を営む父(みのる君から見れば祖父)に連れられて海外へ雄飛したそうだ。帰国後、成人して母と結婚、みのる君と云う逸材を儲けた次第。この写真にも感謝しなければなるまい。

 父の代以前の先祖に言及すれば大袈裟過ぎるし、ややこしくなる。やはり写真の残る父がみのる君の出発点で良かろうかと思う。ちなみに、母の先祖は相場で破綻して田舎に引っ込んだ経緯があったそうな。みのる君の直情径行にはこの血も流れているのだろう。

 更に、ちなみにカミサンのルーツは稲みのる君と同姓だったようだ。これは妙な縁。以前、カミサン方の遠い親戚を名乗る人が突然やって来て、ルーツを調査していると云う。それで知った次第だが、世の中には変わった調査に熱心な方もいるもんだね。

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2007年9月21日 (金)

娘の貫禄

 娘が世間にデビューした頃。しっかりと世間を直視している。やがて、きちんと髪を整えて意欲十分に歩き始めた。Y4

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2007年9月20日 (木)

息子の貫禄

 みのる君の息子が世間にデビューした頃。ポリバケツに入っての水遊び。カミサンの大胆な発想に息子は迷惑そうだが、冷徹に世間を窺っている。M2

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2007年9月19日 (水)

みのる君の貫禄

M1  みのる君が世の中にデビューした頃。世間に愛想を振りまいている所なんぞ、なかなかの貫禄ぶりさ。

 芭蕉の時代は自らの出生時期の記録として「へその緒」に頼っていた面もあったのだろうけれど、近代以降は写真と云う媒体によって自らの出発点を確認出来る場合が多い(今じゃビデオで記録される時代。記録された本人にしてみれば余計なお節介と云う声も聞こえるが)。

 みのる君も自らのデビュー写真に感慨ひとしお。まだまだ可能性をたっぷり持っていた時期。人間、変われば変わるもんだねと云う感想もある。でも、人畜無害で無邪気な笑顔は今も同じ。根は変わらんもんさ。

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2007年9月14日 (金)

高所恐怖症

 みのる君が学生時代、東京茅場町のビル建設工事現場でアルバイトを経験した。早朝から現場に出掛けたが、ヘルメットに命綱と云ういでたちになって不安がよぎった。案の定、ビルの7、8階辺りまで足場伝いに登って行って、外壁の仕上げ作業に従事することになった。実は、みのる君は高い所が苦手でね。地面でネコ(一輪車)を転がしていれば済むような仕事だろうと高を括っていたから、少々慌ててしまった。でも、一応責任感は持っているから、何とか頑張った。出来るだけ下を見ないよう、ひたすら仕上げ作業に集中して、無事、一日を乗り切った。友人のヒデさんの口利きだったけれど、一日で懲りてしまった。何か仕事を紹介してよ、とヒデさんに頼んでいたけれど、軽度の高所恐怖症であることを話しておけば良かったと後悔したもんさ。そう云えば、ヒデさんは大学を卒業後、中東イラクへ出稼ぎ、凱旋帰国したけれど、最近、すっかりご無沙汰している。元気かな。

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2007年9月12日 (水)

長髪時代

 釘打ちのアルバイトに精を出していた頃、みのる君は一年間も伸ばし放題の長い髪を後ろで束ねていた。今では煩わしくていかんけれど、当時は気にならなかった。社会も容認していたし…。いや、きっとヒンシュクを買っていたのだろうと思うけれど、そんなモンは無視していた。無視出来る根性もあったのだろうな。それが、いつの間にか「今時の若いモンは…」と云う台詞が身に付いてしまった。世間体を無視出来なくなった年頃かも知れない。鼻の下に髭を生やしていた時期もあった。まだまだ社会の目が厳しかった頃で、取引先に嫌な顔をされたこともあったが、しばらくは平然としていた。

 80年代初頭の竹の子族の出現辺りから世間体と云う「良識」が崩れ出したのかも知れない。以後、奇を衒う身なりが世間を闊歩し、良識も規範も教養も影を潜めていってしまった。きっと、連中に範を示した長髪組にも責任の一端はあるのだろうな(責任を押し付けられても困るけれど。若気のいたちごっこさ)。その頃、借金返済で首の回らなかったみのる君には無縁の世界に見えた。何だありゃと眉をひそめていたっけ。しかし、そう云いつつも週末は飲み屋でおだをあげていた時期でもある。

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2007年9月10日 (月)

釘打ちのアルバイト

 みのる君が学生時代、毎年のように京都へ遊びに行っていたが、その資金を調達する為、夏休みの前半はアルバイトに明け暮れていた。専ら肉体労働で、工事現場等で見かけるプレハブ小屋の外壁作りに励んでいた。木製の外枠にベニヤ板を釘で張り付ける仕事が多かったが、お陰で釘打ちは上手になった。最初の内は釘が曲がらないよう慎重に、かつ恐る恐る何度も叩いていたが、コツを覚えると簡単でね、トン、トン、トンと三回叩けば終わり、しっかりとベニヤが枠に固定される。これを毎日繰り返していた。大体、一日に数千本の釘を打っていたと思う。今みたいにエアコンなんかない風通しの悪い建物の中で、汗びっしょりになりながら、ベニヤの壁を作っていたけれど、こんなモノでも売れるのかなと訝ったこともある。学生がアルバイトで作ったような代物が商品になるのだろうか。堆く積み上げられたベニヤ壁は、やがてそっくりトラックに積み込まれ、いずこかへ運ばれていく。作れば売れた時代だったのだろうな。それはともかく、みのる君はすっかり釘打ちの名人になった。一寸釘程度は2回も叩けば十分の腕前になって、親に重宝がられたものさ。今は昔の話で、最近はこの腕前もすっかり錆びてしまった。

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2007年8月31日 (金)

ハムパン

 みのる君が東京井の頭に住んでいた頃の話。行きつけの銭湯の前にパン屋があって、湯上がりにここで牛乳を一本買って、一気に飲み干すのが日課だった。この店のショーケースには美味しそうな惣菜パンが並んでおり、時々、夕食替わりに好みのパンを2つ、3つ買っていた。

 ある晩、いつものように牛乳を飲み干してから、何気なくケースの中を覗き込んだらね、みのる君の大好物のハムパンが、その日に限って殊更美味しそうにみえてね、ついつい陳列してあったハムパン全部買ってしまってね、10個位あったかな、これを部屋に戻って一気に平らげてしまった。さすがに腹一杯になったけれど、今にして思えば、当時は侘しい生活を送っていたもんだ。

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2007年8月29日 (水)

香港の思い出

 三十年も前、佐門さんと香港へ旅行した。佐門さんは仕事の関係で香港には詳しかった。海外なんて初めてのみのる君は、佐門にくっついていくのが精一杯だったが、見聞を広めることは出来た(記憶はすっかり薄れてしまったが)。まず、食べ物は全て美味かった。次から次に出てくる料理を残らず平らげていた。有料トイレに慌ててしまった記憶がある。チップの習慣にも戸惑った。ゴミゴミした街並、喧騒、言葉が分からない、高層ビル群、水上レストラン、慕情の舞台等々、見聞を広めた慌しい数日間だったが、一番驚いたのは、買物の際。香港は時間に几帳面だぞと教えてくれた佐門さんと夕暮のデパートに寄った時。いろいろ土産物を物色、気に入ったモノを手に持ってレジに並んだが、長蛇の列。順番をじっと待っていたが、あれは閉店時間だったのかな、間もなくみのる君の番と云う所で、突然レジがお仕舞いになってしまった。客が並んでいるにも関わらず、ハイ、オシマイと云わんばかり。レジの女性はさっさと帰り支度を始めてしまう。客も文句は云わない。何だ、これは。佐門さんが教えた時間に几帳面と云う意味、社会体制の違いを身をもって体験した。軽いカルチャーショックだったね。結局、買物は出来ず。観光客相手の店ではなかったため、余計、時間には厳格だったかも知れない。

 その後、もう一度香港へ行く機会があったけれど、こっちは単なるツアーだったから、佐門さんと歩いたようなコースは味わえなかった。

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2007年8月25日 (土)

出会いと再会と借金人生

 みのる君が東京に住んでいた頃、1ヶ月に給料の3倍も呑んでいた時期があった。荒んでいた訳ではないが、毎晩のように友達を誘っては何軒もの店をはしごしていた。

 そんな或る日、たまたまその日は同郷のリョウさんと新宿で呑んでいた。もう一軒、もう一軒と機嫌よく呑み、談じ、コマ劇場の前を歩いていると、向こうから二人連れの若い女性がやってくる。大勢の通行人で賑わう新宿の街だけれど、たまたまこの二人連れが目に入ったのだろう。女性と呑むのも良いね。リョウさんとみのる君は彼女等を誘って喫茶店に入った。それから2,3軒はしごして呑んだかな、結構、4人は意気投合したね。楽しく呑んで、そして、あっさりと別れた。別れ際に一応お互いの連絡先を交換しておいた。又機会があったら呑もうね。

 みのる君の派手な浪費が過ぎて、とうとう都落ちとなってしまった。あちこちの友人に借金を残して東京を離れる仕儀となった次第。京都から帰省途中の東海ニ君がみのる君を励ましに井の頭に住むみのる君を訪ねた晩、リョウさんも誘って新宿で呑んだ。せっかくだから、以前知り合った彼女等も呼んでお別れパーティでもしよう。なんてことになってね。連絡すると、二人連れの一人は仕事の都合で来られないって云うじゃん。実は来られない子の方をリョウさんもみのる君も気に入っていたけれど、今更誘っておいて止めるのも失礼だし、予定通り新宿で落ち合うことになった。

 当時みのる君は八代って飲み屋の女性に入れあげていてね(借金の膨らんだ要因でもあるけれど)、パーティの前にちょっと顔を出して来るなんて云って、リョウさんと海ニ君を残して飲み屋へ行ってしまう始末。八代にさよならして戻って来ると、呼び出した相方の彼女も来ていて、男三人、女一人でささやかなお別れパーティとなった。

 やがて都落ちしたみのる君が、翌年、さよならパーティに来てくれた彼女に年賀状を出している。

 龍が天に昇って凧となる
 糸が切れたら気儘ながらも
 切れぬ浮世の未練凧
 今年もふわりと奴凧
 風に任せて何処へ飛ぶ

 以後、借金返済の苦闘の生活を余儀なくされたみのる君は、めったに上京することもなく、長い月日を無為の内に過ごしていった。

 9年後の或る日、途切れていた物語が突然に再開。みのる君とさよならパーティした彼女が再会。みのる君の気宇壮大、意味不明瞭の年賀状が彼女の心の片隅に留まっていたみたい。一本の電話から物語が急展開して3ヶ月後には結婚式さ。披露宴の司会進行はリョウさんが受け持ってくれた。それからは、夫唱婦随(むしろ婦唱夫随)の人生を送っている。

 以上がみのる君とカミサンの出会い。これも人生さね。こんな出会いと再会って、あまり聞かないと思う。たった一枚の年賀状もおろそかには出来ない(ナンパも怖い)と云う教訓めいたお話でもある。

 職場や学校等、手近な所で伴侶を見付ける場合も結構多い中、まるで接点のない関東出身のみのる君と甲斐出身のカミサンの例は異色かも知れない。

 ちなみに、結婚後、みのる君は呑みに出ることは(お付き合い以外)ほとんど無くなってしまった。つまり、すっかり平穏の家庭に馴染んでしまった(カミサンに取り込まれてしまった)訳さ。

 蛇足ながら、東京時代の借金は結婚前に完済していたが、結婚資金は二人とも全額借金(両家の親の支援はなし)。稼ぎの良かったカミサンは早々に返済が終わったが、みのる君はしばらく後まで返済に追われていた。

 ようやく借金が終わった頃に、今度は家を建てようと云う騒ぎが持ち上がって、再び莫大な借金を背負い込む羽目に陥ってしまった。しかも土地購入代金と建設資金全額借金と云う大胆さ(預金が全くゼロでも茶室付きの建坪40坪超の家が建つと云う事例だぜ)。

 未だに返済が続いており(ようやく先が見えてきたけれど)、みのる君はこのまま借金人生で終わりそうだ(本人はその生き方自体が「文学的」だと称している)。一応、入金の当てはあるけれど、なかなか思うようには入ってこないのが現状。もっとも、入金の当てが宝くじだけに当てにはならないけれど…。

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2007年8月24日 (金)

栄養失調

 東京で一人暮らしを満喫していたみのる君が金欠病の甚だしい頃、一ヶ月間程、駅の立ち食い蕎麦だけで過ごした事がある。元来蕎麦好きだから、栄養のことなんか気にもせず、手っ取り早くて便利とばかりに、毎日ひたすら天ぷら蕎麦ばかり喰っていた。ところが、一ヶ月程続けたある日、突然動くのが大儀になってしまった。力が入らない。しかもふらふらする。やっとの思いで実家へ戻った所、母親にお前は馬鹿かと云われてしまった。完璧な栄養失調だったみたい。

 以来、駅の立ち食い蕎麦屋の臭いが嫌いになってしまい、元の蕎麦好きに戻るまで長い歳月を費やしてしまった。若い時は平気で無茶をするものだね。

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2007年8月22日 (水)

ゲタを鳴らして…

 みのる君が通った高校は県下一の進学校だった。高校合格を中学担任の所へ報告に行った所、お前が受かる程なら、他の連中は全員合格だろうと云われてしまった。確かに、一緒に受けた連中は皆合格していた。

 その高校は男子校で蛮カラ気風を堅持していた。みのる君はこの気風を甘受して、3年間ゲタで通学した。吉田拓郎の歌の世界そのままだった(女郎屋通いは当然無縁だったけれど)。腰に手拭をぶら下げて、ゲタを鳴らして闊歩していた。

 校風って一種のステイタスでね、非常に分かりやすい。ゲタ履きの学生服姿だけで、周囲は何者かを理解してくれる。分かりやすいから悪いことは出来ない。自ずと自浄作用が働く。最近はこうしたステイタスが無くなったような気がする。個人情報が都合よく保護される匿名社会も一因だろうな。バレなければ何してもいいと云った風潮やゴネ得の横行、恫喝で利益を得るような行為も目立つ。学校の給食代を払わない親や、難癖付けて病院の治療費を踏み倒す輩等々品格もなければ道徳心もない連中が実に多い。ステイタスの喪失によって魑魅魍魎が跋扈する社会を作り出してしまったのかも知れない。

 男子校で蛮カラとくれば、まず、女性には縁がなかった。勿論、盛んな連中も多かったが、みのる君は几帳面にも質実剛健を旨としていたから最後まで蛮カラで通した。ただ、映画好きの軟弱さは兼ね備えていたけれどね。今でも、女性が苦手なのはこの時代の名残だろうな…。

 みのる君は、大学生も学生服が本分と思い込んでいた。入学式に学生服で出席したら、大半が私服なのに驚いた。かえって学生服が目立ってしまって、体育会系の勧誘攻めにあって往生した覚えがある。純粋無知だったのだろうね。しばらく学生服で大学に通ったけれど、その内軟派に転じてしまった。そして、酒もタバコも軟派に堕してから身に付けた。もっとも、奈良漬で酔っ払う親父に似て酒は相変わらず今でも弱い。

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2007年8月10日 (金)

せがれの勇姿

 娘の勇姿をご紹介したので、ついでにせがれの凛々しい姿もご披露しよう。せがれが自動車のタイヤと同じ位の身長の頃、果敢に大地に挑戦している姿。口を真一文字に結んで、しっかりと世界を見つめていた。

M1  公園デビューした頃、見知らぬ大人たちのボール遊びを見たせがれは、人見知りもせずボールを追っかけて走り回っていた。

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2007年8月 9日 (木)

用心棒?

 みのる君が東京にいた時分の事。ある日、友人のリョウさんと板橋のスナックで呑んでいた。午前0時を回っていたかな、そろそろ引き上げようか、大分呑んだぞ、などと二人とも上機嫌で帰ろうとした時、カウンターの奥にいたママさんがそっと近寄ってきて、もう少しいて頂戴と云う。そして、先程ふらりと入って来た一人の男性客の方をチラリと見る。リョウさんもみのる君も、とっさにママさんの意図することが分かった。私を一人にしないで。酔っていても飲み込みは早い。OK。ママさんにビールの追加を頼んで、再び二人でにぎやかに呑み始めた。

 店のママが不安がったのも肯ける。入口近くに座っている男性客は胡散臭そうな怪しい雰囲気が漂っていた。ママさん一人を残しては帰れない。この際、一杯呑みながらの用心棒だ。しばらくして男性客が無愛想に出て行って、みのる君たちの役目も終わった。

 最近、スナックのママが悲惨な事件に巻き込まれる事件が報道されていたが、みのる君が経験したスナックでの出来事も、もしかしたら紙一重だったかも知れない。近頃は更に物騒になった。

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2007年8月 6日 (月)

みのる君の勇姿

 以前も書いたことがあるけれど、若い頃のみのる君は足が速かった。その証拠写真がこれ。勿論、先頭切って走っているのがみのる君だ。並みいる強豪を抑えて堂々と走っているぞ。勇ましかったな。世の中が豊かになるちょと前のことだ。幼稚園内で見付けたネズミを交番に届けて小遣い銭を稼いでいた頃。クラスメートや先生からの非難の声や制止なんぞ意に介さず、交番に走っていったものさ。

D570310s

 その頃の報いかな、長じてから、今度はみのる君がネズミ捕りに引っ掛かってしまい、お巡りさんの小遣い銭稼ぎの餌食になってしまった。

Y25s  ついでに、みのる君の娘が幼稚園時代の写真を披露。さすがにみのる君の子供だ、やる気満々。大きく右手を突き出してライバルを牽制している。次の出番の子は娘の勇姿に圧倒されて、呆然と立ち尽くしているぞ。

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2007年8月 5日 (日)

ポーカーフェイス

 昨日、みのる君は顔で得しているなんて書いたけれど、実は損の方が余程多い。特にポーカーフェイスが出来ないから勝負事ではいつも損をしていた。

 昔は散々麻雀をやったけれど、まず、勝ったためしがなかった。ほとんど手の内を読まれていた。お、テンパイだね。相手にすぐばれてしまう。よっぽど嬉しい顔になってしまうのだろうな…。相手はみのる君の顔を見て勝負しやがる。良い手になると、ついつい顔がほころんでしまうみたい。待ちもバレバレ。出来るだけ難しそうな顔をしても、授業料を払う方が多かった。きっと、元来が善人なんだろうな。いくらやっても勝ち目がないから麻雀は諦めた。

 トランプも同じ。文字通りポーカーフェイスが出来ない。みのる君は心理戦に弱いと思う。根っからの正直者だから、損ばかりしてしまう。考えてみれば、お年寄りとお近付きになるのも損の部類に入るかも知れない。云いかえれば呈のいい道案内のボランティア。得するのは相手様だい。

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2007年8月 4日 (土)

人畜無害

 みのる君が若い頃、しばしば年寄りから道を尋ねられた。市内であれば大方の見当が付くから親切に教えることも出来るが、見知らぬ町や旅先でもよく尋ねられた。自分も初めての土地だから分からないと断わるしかないが、何故こうも頻繁に訊かれるのだろうか不思議だった。しかも、質問してくるのは大抵が年寄りの女性。若い女性であれば一緒に尋ね歩いてやっても良いけれど、そんな出会いは一度もなかった。

 きっと、みのる君の顔は人畜無害に見られていたのだろうな。友達から、お前はいつもニコニコしているなと云われたことがある。本人にそんな意識はない。ぶっきら棒と云われることも多いから、むしろ、しかめっ面かと思っていたけれど、周囲の人たちにはそうに映らないみたい。多分、本人が気付かない内に自然と優しそうな顔付きになってしまうのだろう…。

 学生時代、コンパが終わって女性陣を送り届ける段になった時、仲間たちはいつも敬遠されたのに、みのる君が送っていくことには異を唱えず、かえって安心していた。これって、みのる君を男性としてみてくれていない証拠だぜ。俺はやっぱり人畜無害かい。見知らぬ土地を旅行している時に地元の年寄りから道を尋ねられるのも、きっと同じ理由だったのだろうね。内心はニコニコ顔とは裏腹の不逞の輩なんだけれど、案外、顔で得していたのかも知れない。

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2007年7月28日 (土)

みのる君の偏見

 過日、七七日の法事でお寺さんへ行った。街中の一等地に構えたその寺に入るのは初めてだったが、住職の趣味に驚いた。

 法事の前に、しばらく控えでお茶などを頂いたが、そこに作り付けの大きな書棚があって、何気なく眺めてみれば、岩波版の日本古典体系や新版の古典体系、和辻哲郎全集や西田幾多郎全集、はては日本映画まで、みのる君の蔵書と同じモノが陳列してあるではないか。嗜好が似ている。日本映画まで揃えているとは。只者ではないな。美術全集から仏教関係(お寺だから当然だろうけれど。みのる君が持っている仏教関係全集も揃っている)の書物が隙間無く並んでいるぜ。しかも、みのる君の卒業した高校が発行した高校史まで揃っている。おいおい、こんな所に同窓生かい。急に親しみを覚えてしまった。母校の同窓生が社会で頑張っている姿って、やはり、嬉しいものだね。どんな坊主かな。興味をもって法事に臨んだが、法衣をまとっているから年齢は分かりづらい。何やら難しそうなお経を唱えていたが、どうも、こいつは曲者だな。ますます身近に感じたが、その後、慌しく納骨へ向かわねばならず、お近付にはなれなかった。

 みのる君の仲間に坊主の息子がいて、昔、彼の実家(山陽地方のお寺)へ遊びに行ったことがある。夜は本堂で休ませて貰ったが、真冬の頃、本堂を一人で占領して眠るには広すぎたし、寒かった。本堂の使い道って、法事だけじゃない。修行もあれば、寝室にもなる。成程ね。その彼が京都に遊学中もわざわざ訪ねて行って、夜の街を案内して貰ったが、坊主って商売も満更ではないね、何処へ行っても一目置かれるし、モテるし、羨ましい。そんな彼の所業を見てきた所為か、坊主の説教もみのる君には糠に釘。くだんの寺の蔵書を拝見して、こいつ曲者だな、とみのる君が勝手に思い込んだのも頷けるってものさ。偏見だけれど、ね。

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2007年7月26日 (木)

クイズの答え

 一昨日、「ある任意の整数(何桁でも構わない)が3で割り切れるかどうかを簡単に見分ける方法があります。さて、どんな方法でしょうか」と云うクイズを出したが、一応、念のために答えを披露。

 具体例で説明すると、例えば「6528173」と云う数の場合、6+5+2+8+1+7+3と云う具合に各桁の数値を足し算すると、32となる。更にこれも、3+2と足し算すると、答えは5。これは3で割り切れないから、元の数値も3では割り切れない。「345」では、3+4+5=12、更に、1+2=3。これは3で割れるから、345は3で割り切れる。つまり、各桁の数字を足し算して、それが3で割り切れれば、元の数字は3で割り切れる。と云うのが答え。

 あまりに簡単なクイズだったようで、元木さんがあっさりと解いてしまった。

 実は、みのる君が中学生の頃、この問題の法則を見付けて友達に披露して得意がっていた。

 ついでに、同じ頃、同じ数字の2桁の2乗の計算で、下一桁が「5」の場合(例えば、25の2乗、45の2乗、65…)は、10の位の数字に1を加えた数を掛けて(35の場合、3×4)、25を付けると(3×4=12、これに25をつけて、1225)答えになることを自ら編み出して、やはり得意になっていた。当然の帰結だけれど、当時のみのる君は自分の「発見」に大満足していた。今から思えば無知で無恥な中学生だったな。でも、不勉強ながらも、自らが苦心して編み出した点は評価出来るかと思うけれどね…。

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2007年7月25日 (水)

ドライブのトラブル

 昔の話。みのる君の旧友のリョウさんとドライブを楽しんでいた時、長野県軽井沢から碓氷バイパスに入った所で、車の調子がおかしくなってね、最初の大きな上り坂のてっぺんで、エンストしてしまったことがある。原因は単なるガス欠。燃料計は満杯を指したまま。つまり、メーターが壊れていたんだね。リョウさん、メーターを見ていなかったみたい。エンスト少し前になって、おかしいのに気が付くなんて呑気なもんだ。折りよく坂の上だったので、向きを変えて(みのる君が車を押して、リョウさんがハンドルを切ると云う人力作業)、下り坂をエンジンを切った状態で料金所まで下りていって、そこで電話を拝借してスタンドにSOSさ。とんだ道草だった。

 新潟の山中で、リョウさんの車のダイナモが故障したこともある。車の少ない道だったので、惰性を利用して、何とかエンジンがかかったけれど、長く続かない。しばらく走ると再びエンスト。何度かこれを繰り返して、とうとう新潟と群馬の県境にある三国トンネルの中でもエンストしてしまった。トンネルの中で止まったらヤバイぜ、なんて話していたので、さすがのリョウさんも慌てていた。幸いと云うべきか、運良く片側を塞いで道路工事をやっていたものだから、工事中の車線に車を停めて、他の車に迷惑をかけることはなかったけれど、工事をしている人たちが苦笑。格好