教育

ラジオ体操の効能

 東日本大震災の際、混乱や略奪の類いもなく、被災者の冷静沈着な対応が世界中を驚かせた。称賛の声が多かったと云う。日本人には、困った時はお互い様の精神や我慢する根性が今も健在か。

 日本の子供たちは、夏休みになるとラジオ体操に励むと云う生活を半ば強要される習慣がある。町内の子供会が主催し、出席すると判を押して貰える。みのる君が子供の頃もせっせと通っては判が連なっていくのを喜んでいた。

 今もこの風習が生きている(ラジオ体操の期間は短くなってしまった)が、思うに、このラジオ体操に駆り出される仕組みが世界を驚嘆させた「冷静さ」を養っているのではないだろうか。子供会の存在とラジオ体操の習慣。判を付く監視体制。長じて深夜にけたたましい爆音を響かせて走り回る輩は、多分、自宅周辺では大人しくしているに違いない(と思う)が、これもラジオ体操と子供会の影響かも知れない。地元への気遣いや自己抑制はラジオ体操と云う団体競技で培われ、身体に染み込んで行ったのだろう。

 自治会が主催する夏祭りや地域の盆踊りの風習も一役買っていると思う。こうした団体行動を通して、日本人は知らず群れる事に慣れ、集団生活を受け入れ、我慢を覚え、付和雷同にも気付かなくなっていったのだろう。一歩間違えると危険な方向に突っ走ると歴史が証明している。

 世界が感心した日本人の行動は、子供の時分からラジオ体操に親しんだ結果に他ならない。ラジオ体操の効能だ、NHK万歳、などと云う理屈は、少し乱暴かな。

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井の中の蛙

 井の中の蛙と云うことわざがある。了見が狭いとか世間知らずの例えだ。

 全国学力テストの結果の公開、非公開をめぐって、最近、鳥取地裁が非公開は違法との判断を下したが、妥当な判決だろうと思う。子供を井戸の中に閉じ込めておいてはいけない。世間は広いぞ。世の中にはもっと頭の良い子供は多いぞ。少し位成績が良いと云って油断するな。と云う判断の拠り所がテスト結果だ。自分の位置を確認する上で大いに参考になるだろう。小学校から中学校へ、更に高校へと進学するたびに自信が揺らぐ経験を多くのひとが持っているに違いない。が、しかし、実は、学校の成績なんて社会に出ればほとんど何の役にも立たない。

 社会に出れば、否応も無く競争原理に巻き込まれる。過度な競争や序列化に翻弄される。人様を「勝ち組」、「負け組」に区分するおかしな風潮もある。テレビのバラエティ番組は「いじめ」を増長している。合格率を誇る予備校が繁盛している。大人自身が序列化を是認し、かつ汲々としている。あえて蓋をする必要は無い。井の中の蛙、大海を知るべし、だ。みのる君は井の中で満足しているけれど。

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日本の、これから

 先週末、NHKの学力についての討論番組を拝見。さまざまな立場の論客と一般視聴者が一堂に会してお互いの意見をぶつけ合って、「学力」の問題を掘り下げてくれた。面白いと云えば確かにその通り。しかし、所詮は噛みあわない議論。論点が曖昧だから、各自、自らの知識と経験の範囲内での発言に終始していた。適用範囲がそれぞれ違うから、噛み合うはずががない(最初の部分を見ていなかったので、確たることは云えないが)。現場の先生方のご苦労にも肯けるし、生徒側の主張も一理ある。一家言は良し。が、適用範囲の違いは如何ともし難い。生徒が先生を評価すると云う議論もあったが、知識や経験不足の生徒に判断を委ねる無謀さの議論が無かった。絶対評価なんてあり得ないとなれば、自ずと意図的評価の介在を認めなければならない。情報操作につながる危険性にまで言及していれば、もう少し白熱した議論になったかも知れない。番組の時間切れも残念。

 読み書きソロバンの基礎学力を身に付けさせるのは義務教育の範疇だと思う。後は本人次第。自分の人生をいかに生きるか。他人任せや責任転嫁でなく、自ら知識を求めるしかない。発想や想像力、知恵と云ったものは知識や経験が無ければ出てこない。番組中で、学力が無くても知恵が出るような発言をした論者もいたけれど、無から有は生じない。下地があって、初めて知恵が生れる。思い違いの発言だろうなと思う。

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十大ニュース

 子供等が中学生、高校生の時分、毎年大晦日に子供等の十大ニュースを書かせていた。今年一年を振り返って自分自身にとって大きな出来事を10件書きなさい。中学生時代の子供等は一生懸命書いた。文字だけでなく、イラスト入りの凝った十大ニュースを苦心して書き上げていたが、高校生になると、半ば惰性になってしまったが、この関門を通過しないとお年玉に影響するかと懸念していたのだろう、一応、自分の一年間を振り返る時間を設けて、元旦ギリギリになって書き上げていた。

 子供等が幼い頃から、役割分担を決めて年末の大掃除を手伝わせていた。両親の率先垂範もあって、家事手伝いを身に付けていった。勿論、年を経る程に不平も不満も口にするようになったが、与えられた役割は果たしてくれた。

 多分、こうした強制力が子供の成長過程に必要だろうなと思っている。親の自己満足かも知れないけれど…。

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子供たちの預金通帳

 みのる君に息子や娘が生れると、あちこちからお祝いを頂戴した。子育ての頃は七五三や入園、入学式、誕生日等、事ある毎に祖父母や親戚、友達からいつも頂いていた。その度にお返しは欠かさなかったが、頂いたお祝いは全て子供から取り上げていた。使い道を知らない幼い子供たちに金は無用さ。たびたび過分の小遣いを子供に与える方がいたが、教育上宜しくないので今後は無用に願いたいとはっきりお断り申し上げた事もある。

 公明正大なみのる君は、子供等から取り上げたご祝儀を自分の懐に入れた訳ではない。実は、子供等から没収した金は全て子供名義の預金通帳に預金していた。そして、子供等が小学校を卒業する時、通帳と印鑑を本人に渡した。これからは、全て自己責任で管理せよ。見れば、結構、貯まっている。子供等には多すぎる小遣いになったようだ。

 以後、子供等の通帳は見ていない。解約したのかも知らない。一切関与せず。実にあっさりしたもんさ。

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テレビゲーム

 インベーダーゲームが日本中を席巻した頃、ご多分に漏れずみのる君も大分教育費を払った。単純なコンピュータゲームだけれど、格好の時間潰しだった。大の大人がディスプレイに向かって血相を変える図なんて、あまり感心しないけれど、ゲームと割り切っているから、そんなに熱くなる事もない。

 コンピュータゲームは大人の遊び道具だと思っている。子供に与えるもでのはない。子供は無から有を生み出す想像力に長けている。地面に棒ッ切れで輪を書けば、そこが陣地になる。紐があれば縄跳びが出来る。公園の遊具が本物の自動車に変身する。子供達は何もない所から、工夫を凝らした遊びを発見していく。この創造力の芽を摘んではいけない。現状を受け入れ、自分なりに消化していく能力を育てる為には、あてがい扶持では駄目。だから、みのる君は子供等にTVゲームを買い与えなかった。TVゲームは大人になってからで十分。今を生きよ。

 でも、子供等は友達の家に上がり込んでTVゲームに夢中だったみたい。近所では、ゲームを与えない不届きな親と評判だった由。後で聞いた。心外な。子供等だって友達付き合いがあるから、肩身の狭い思いもあったのだろうな。難しいもんだね。

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漢字のしり取り

 みのる君の子供等が学校で一生懸命漢字を勉強していた頃。子供等と、漢字教育を兼ねて漢字のしり取りゲームに興じた時期があった。夕食後の家族団らんの時などにみのる君の提案で始めたものだが、他愛ないお遊びながら、意外に頭を使う。例えば、「漢字」と云う熟語から始めると、次の番は「字」で始まる2文字の漢字を考える。例えば、「字引」。次は「引用」、「用事」、「事実」、「実物」…、と云った具合に、次々と熟語をならべていくゲーム。使ってはいけない言葉は名前や地名などの固有名詞と接尾語の「然」。このゲームは、暫くの間、家族で結構楽しめた。カミサンが難渋していると、子供等はおおはしゃぎだった。

 さて、教育効果があったかと云うと、甚だ怪しい。すっかり成長した子供等は国語はからきし駄目だ。字も知らない。すっかりケータイに毒されている。

 息子が幼い頃、夏目漱石の「坊っちゃん」の冒頭部分を毎日朗読させたことがあるが、この繰り返し教育の実践もあまり成果はなかった。ただ、小学校高学年になって書いた息子の作文を読むと、なかなか味のある文章が綴られていて、これは、もしかしたら音読の成果だったのかな、などと思ったものだ。

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愚見數則その2

 引き続き、漱石の「愚見數則」から一節。尚、読みやすく表記。

 「善人ばかりと思うなかれ、腹の立つ事多し、悪人のみと定むるなかれ、心安き事なし」

 世の中、善人ばかりと思えば腹立たしい事が多い。逆に悪い奴ばかりと考えれば心落ち着く事がない。確かに理屈だね。大体、他人の所作には気に食わん事が目立つ。何であいつはドジなんだ、なんて思うと苛立つ事頻りだ。悪人ばかりでは、夜も心配でおちおち眠れない。漱石は、よっぽど、悔しい思いをしてきたのだろう。

 「多勢を恃(たの)んで一人を馬鹿にするなかれ、おのれの無気力なるを天下に吹聴するに異ならず、かくの如き者は人間の糟(かす)なり、豆腐の糟は馬が喰う、人間の糟は蝦夷松前の果てへ行っても売れる事ではなし」

 よってたかって人をいじめるな。自分の無気力を回りに吹聴しているようなものだ。そんな奴は人間のカスだ。豆腐のカスは馬が喰うから売れるけれど、人間のカスは売れやしない。北海道を例に出しているけれど、他意はない。日本の果て、つまり、何処へ行ってもと云った意味。

 他に、自分みたいな人間が教師をやっていては日本国が危ない。君たち学生が偉くなって、自分のような先生を追い出せば、きっと日本教育は隆盛をきわめるだろうなどと、ヤケクソ気味の発言もある。

 漱石が松山時代の一端が窺える文章。もう一つ漱石の鬱憤。

 「馬鹿は百人寄っても馬鹿なり、味方が大勢なるがゆえ、おのれの方が智恵ありと思うは、了見違いなり」

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愚見數則

 夏目漱石の「愚見數則」(明治28年、愛媛県尋常中学校~松山中学校~「保惠会雑誌」に発表。当時28歳)が面白い。以下に、冒頭部分を抜粋。岩波版「漱石全集」第12巻より。

 昔の書生は、笈を負いて四方に遊歴し、此人ならばと思う先生の許に落付く、故に先生を敬う事、父兄に過ぎたり、先生も亦弟子に対する事、真の子の如し、是でなくては真の教育という事は出来ぬなり、今の書生は学校を旅屋の如く思う、金を出して暫く逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かかる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚なり、主人たる校長すら、時には御客の機嫌を取らねばならず、況や番頭丁稚をや、薫陶どころか解雇されざるを以て幸福と思う位なり、生徒の増長し教員の下落するは当然の事なり。(一部新字体表記に変更)

 意訳すると、昔の学生は自ら歩き回って師と仰ぐ先生を探し求めた。だから先生を親兄弟以上に敬うし、慕われた先生も学生を我が子のように扱う。こうした師弟関係でなければ真の教育は出来ない。ところが、今時の学生は学校を旅館かホテルのように考えている。金を出して泊っているようなもので、厭になれば旅館を引き払ってしまう。それでは旅館の経営が成り立たない。校長は経営者みたいなもので、お客のご機嫌取りもしなければならない。ましてや先生は旅館の従業員同然で、学生を薫陶(よい方向に導くこと。つまり教育)するどころではない。クビにならないよう無難に振舞ってしまう。これでは、学生が付け上がるのも先生が堕落するのは当然だ、と云った内容。

 「愚見」を文字通り「愚かな考え」と思ってはいけない。謙遜だよ。「数則」はいくつかの決まりや規則になるだろうが、この場合、「自分の考え」と云った意味。要は私見。「坊っちゃん」に出てくる騒々しい生徒を連想し、漱石先生の苦虫を噛み潰したような顔を思い浮かべれば、大方の察しが付くだろう。

 28歳の漱石の憤慨は今日に通じる。生徒の性質も先生の事なかれ主義(一部だと思うけれど)も、今も昔も大して変わっていないみたい。昨今は難くせつけて給食費を払わない父兄もいて、いよいよ教育現場が混迷模様を呈している。明治の気骨が現状を見れば、どんな感想を述べるだろう…。

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子供たちへの贈り物

 みのる君が自分の子供達に贈ったプレゼントを一つご紹介しよう。

 大それた物ではない。子供たちの生い立ち記録さ。生れた日から、成長過程でどんなことがあったのか。1頁に一年分を日記風にまとめた高校卒業までの成長記録。何年何月何日に家族とどこそこへ旅行した、とか、風邪を引いた、とか。或いは父からお年玉を幾ら貰ったとか、母と喧嘩したとか…。子供自身が日記を書く視点で家庭内のさまざまな出来事を時系列に並べている(生憎、学校や友達の事は当人にしか分からない。公的行事は親も把握しているが、子供の世界の事に関しては子供の記憶にしか残っていないだろう。これは止むを得ないね)。

 誰でも生れた頃の記憶は失っている。大体、小学校前半位まではほとんど記憶にないだろうと思う。あっても断片。写真やビデオもやっぱり断片に過ぎない。その頃の自分はどんな事をしていたのか。記憶の断片がつながっても、子供達にとっては、だから何だ、自分の幼少時代なんかどうでも良い、過去なんかに興味はない、などとかえって迷惑なことかも知れない。だが、そんなご意見は無視する。

 18歳にもなれば自分の人生を考えられる。だから、考えられなかった幼い頃の思い出は親の責務として、きちんと記録しておく。そこが大事。そして、年頃になった時、いきなりプレゼントさ。

 子供たちは何の反応も示さなかった。まぁ、そんなもんだろうな。でもね、将来、例えば自分が9歳の某月某日にこんな事をして父親に叱られた、と云った出来事を知るのは自分の歴史を知る上でプラスになると思う。余計なお節介だろうが、親は確かに子供の成長を見守っていたんだ(一応)。

 こうした成長記録は、親自身がまめにまとめておかなければ出来ない。子供自身にとっては空白の幼少時代の記録と記憶を補えるはず(根拠のない思い込みかも知れないけれど)。これも子供教育の一環だろうな。

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