翻訳文学と国のあり方
岩波書店の「図書」10月の巻頭に、二宮正之氏と云う日仏近世文学の先生が「翻訳文学と国のあり方」と題した一文を発表している。国は翻訳文学にもっと資金援助した方が宜しいと云う内容だが、その中で目を引いたのは、次の文章。「マンガが世界を席巻したのはけっこうであるが、今の日本で文学に対する関心が急速に薄れていることは否定しがたい。文学軽視が精神の貧困につながることは明らかなのだ。」
氏の論調はちょっと乱暴だが、「文学への関心が薄れている」事実は同感。しかし、だからと云って、「文学軽視」とイコールにはならない。文学軽視が「精神の貧困につながる」と云うのも短絡的すぎる。心情的には十分に理解出来るけれど。
多分、マンガやTV、映画と云った多様な媒体の出現が「文学」への関心を薄めているのだろう。いずれも昔は無かった表現媒体。溢れる出版物、ノウハウ本の山も一因。選択肢が多すぎると手を出さない。
和歌や俳句は視覚的だ。かつ、既成のイメージをベースにしている。「花」と云えば「桜」。「桜」と聞いて万人が思い描く「桜」は、大体一致している。こうした既知にすがって歌を詠み、五七五に盛り込んでイメージを共有する。極論すれば現代のマンガと同じ(いささか乱暴かな)。芭蕉は、この既知感をちょっと壊して独自の世界を構築した。蛙は鳴くものと云う大方のイメージを壊して、「飛び込む」と表現したから拍手喝さいを浴びた。
イメージに頼った「マンガ」の素地は昔からあった。だから、マンガが世界を席巻しても文学軽視にはならないと思う。視覚は思考停止を招くと云う一面も内包しているけれど…。
学力テストの結果は競争をあおるから公表しない、と云う姿勢の一方で、規制緩和で「勝ち組」や「負け組」と云った枠組みを是認するような競争原理を導入したり、一時は空洞化を招く政策を積極的に推進した国の首尾一貫しない姿勢に言及していれば、もっと説得力があったと思う。国は文学に無関心と云う議論の方が余程面白い。
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