カテゴリー「書籍・雑誌」の13件の記事

2008年6月13日 (金)

加田怜太郎全集

 知っている人は知っている加田怜太郎。本格推理小説家として話題を呼んだから、本格推理小説好きは目を通しているかと思う。親友の福永武彦が自分の全集に収蔵(「福永武彦全集」第5巻:新潮社)している。いかにも本格モノらしい勿体ぶった文章。舞台設定から登場人物までも本格風で溢れている。主人公、伊丹英典の由来も楽しい。たまには、遊びの精神に触れるのも好い。趣味的な悪戯万歳。

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2008年5月25日 (日)

「学問のすゝめ」の発行部数

 ご存知、福沢諭吉の「学問のすゝめ」は明治5年から9年に書かれた書物だが、ベストセラーと云える程、売れに売れたらしいね(どうでも好い事だけれど…)。明治13年までに70万部を売ったと云う。しかもニセモノまでも10数万部が売れ、諭吉自身が「古来稀有の発見」と云った由。お陰で慶応2年に刊行した「西洋事情」も20数万部が売れたらしい。相乗効果かな。

 明治維新直後の時代にあって、70万部の販売は驚異的だろうね。版元は儲かってしようがない。諭吉も莫大な利益を得て、慶応義塾の経営も賄えたと云う。第一、この時代に本が売れると云う風土があった事が驚き。70万人の読者も立派なものだ。テレビもラジオもインターネットもない時代でさえ情報は共有された風土。明治時代の向学心に拍手だね。中村光夫の「明治文学史」に発行部数が書いてある。

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2008年3月 5日 (水)

日本語のリズム

 若干古い書物だが、別宮貞徳氏の「日本語のリズム」(講談社現代新書。昭和52年発行)は、日本人のリズム感覚から独自の文化論を展開しており、一読も宜しいかと思う。普段、見過ごしてしまう視点から四拍子文化論を語っている。

 日本語は二音節が一単位となっている。例えば、英語の「スタート」は一音節なのに、日本語では四音節となってしまう。日本語の音節は極端に短くかつほぼ同じ長さ(等時性)に発音される特徴を踏まえた四拍子文化論。五七五は休符付きで4分の4拍子。日本人は三拍子が苦手なのは、「日本人の四拍子文化は、先祖が農耕民族だったからである」と述べ、韓国はじめヨーロッパでは圧倒的に三拍子が優位なのは、騎馬民族で動きに上下動が加わっているから、農耕のリズム感とは違う跳躍のリズムとなったと云う。

 和歌や俳句を読む時、この四拍子を意識してみると、成程、確かにその通りと感じ入ってしまう。

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2008年2月27日 (水)

日本語のために

 昭和49年、新潮社から刊行された丸谷才一氏の「日本語のために」ではしょっぱなから国語教科書批判を展開している。食ってかかっている感じもするけれど、指摘のいちいちはまさに正論。今の国語教育を見直す好材料の一つかも知れない。発行されて30余年、未だ色褪せないのは学校教育が古色蒼然としている証拠だろうか。「子供に詩を作らせるな」、「子供の文章はのせるな」、「小学生にも文語文を」などと挑戦的な惹句が並ぶ。「文学づくのはよそう」と云って、国語教科書の編者の浅薄な文学好きを揶揄している。最後に、「字も教へずに何が文学なものか。」と締めくくっている。その通りだろうね。

 昨今、TVや雑誌で日本語のクイズ番組が溢れている。日本語を見直す機会にはなるけれど、それ以外何の役にも立たない。絵文字の氾濫を放置しておいて、一生使う機会もないだろう難解な言葉をクイズに仕立てるのも、いかがなものかね。

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2008年2月26日 (火)

変わる日本語

 「変わる日本語」と題した講談社ゼミナール選書(昭和56年刊。若干時代遅れか)の中に、斎賀秀夫氏(国立国語研究所)の「現代人と漢字」を述べた一文がある。今の人々(昭和56年時点)の文字意識を論じていて面白いいが、特に成程と感心したのは、学生の漢字に対する意識の変化を述べたくだり。昔の学生は漢字の誤字を指摘されると「それこそ顔を赤くして、消え入らんばかりに恥じ入るそぶりを示した」が、今の学生はケロリとしている由。ところが、英語のスペリングの間違いを指摘すると、「顔を赤くして、モジモジと恥じ入る」そうだ。

 自国語のスペリング(要は漢字の誤字)のミスには平然としているのに、外国語のスペリングの間違いには大いに恥じ入るのは、「ふだんから、通じさえすればいいではないか、という感覚が根底にあるから」だと学生気質ないしは現代日本人の大雑把さを見抜いている。恥の文化も変わってきているのだろう。昭和56年当時で既にこのような学生気質。絵文字文化が誕生してもおかしくない環境は醸成されていたのだろうと思う。

 本日15時半から10分間程度、サーバーのメンテナンスの由。閲覧もコメントも出来なくなります。ご了承下さい。

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2008年2月24日 (日)

ナカマとヨソモノ

 井上ひさし氏の「私家版日本語文法」(新潮社。昭和56年)に、指示代名詞の「コレ」、「ソレ」、「アレ」、「ドレ」(ひっくるめてコソアド称格体系。コ系は近称、ソ系は中称、ア系は遠称、ド系は不定称)に言及して、ナカマとヨソモノについて論じたくだりがある。コソアドは遠近区分け法であり、自分と相手との間合がこの指示代名詞に表われてると述べている。「コレ・ソレ」の場ではじつに礼儀正しい。仲間内と云う環境だからだ。仲間以外は、「アレ」とか「アチラ」さんとか、ないしは「ドレ」とか「ドチラ」なんて云って余所者扱い。

 夫婦間の会話では、しばしば「コレ」や「ソレ」が出てくる。おい、あれ、取ってくれ。あれって、これね。これでお仕舞い。意思は通じる。これが「ナカマ」と云う範疇。友達同士の会話で、あいつはだらしねえよな、などと陰口を叩く場合なんかでは、「アレ」が出てくる。友達同士から見れば、「あいつ」は仲間ではない。ヨソモノの部類。日本人は巧みにこの指示代名詞を使い分けて、自らの位置を確保している。御説ご尤も。

 ケータイ電話がすっかり普及して、近頃は絵文字なる表現方法やギャル文字が跋扈している。ネット社会では仲間内の符丁がアッと云う間に世の中を席巻してしまう。マスコミも面白がって取り上げるものだから、意味不明の表現の洪水状態。いかがなものかね。仲間内の言葉遊びの延長線で社会と繋がっていると、これまで培ってきた文化が廃れてしまう気がする。ヨソモノとの緊張関係を保っていないと、やがて自ら余所者になりかねない。お前、こんな言葉を知らないのかい、バッカだな、なんて仲間から揶揄されて余所者の悲哀を味わってはバツが悪かろう。

 絵文字。何たる無精で画一的な表現。古代回帰か。文章には行間のニュアンスを読み取る楽しみがあるけれど、ワンパターンの絵文字にそれは期待出来ない。「夏って感じ」の表現方法が違和感なく受け入れられて久しいけれど、この言葉の印象にすがった表現方法から派生したのが絵文字かも知れない。意味は理解出来るけれど、例えば、笑いには微笑みもあれば苦笑もあり、爆笑や哄笑、嘲笑と云った表現があって腹を抱えるなどと云った言い回しもあるけれど、それを他愛ない絵で片付けてしまって良いのかな。

 文末辺りに「(笑)」と書く手抜きの表現も同様。自ら思考を停止しておりますと云っているようなものだ。時々、コメントを頂戴する元木さんには失礼かも知れませんが、ご理解の程を。他意はありません。みのる君の文化論の一端です(笑)。

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2008年2月17日 (日)

広辞苑第六版

 広辞苑第六版を衝動買いしてしまった。みのる君の書棚にはすでに第二版と第四版が鎮座している。カミサンも第二版を持っている。一体こんな重いモノ、どうするの。カミサンが呆れている。確かに重い。ほとんど無用の長物だろうな。第四版を買っても、これを紐解いた記憶がない。飾っておくだけ。当時は逆引き広辞苑も発行され、ついつい買ってしまった。今回も、懲りずに手を出してしまった。

 昔のみのる君は「ツンドク」と云う読書が好きで、読みもしないのに次々と全集本を買っては悦に入っていた。最近は金欠病が悪化して、滅多に買わない。買えない。それに買いたいと思う本も少ない。本屋にはあふれんばかりの書物が飾ってあるけれど、どうも食指が動かない。読むのも億劫になってしまった。唯一森博嗣のミステリーばかり読んでいる。近頃はこれもすっかり飽きてきたけれど、惰性って怖いね、本屋で新刊を見かけると手が出てしまう。

 広辞苑第六版には付録が付いている。「漢字・難読語一覧」なんかは重宝しそうだけれど、「手紙の書き方」なんて大きなお節介まで付いている。大分読者におもねているみたい。時代の流れかな。

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2007年11月 6日 (火)

図書11月号の巻頭文

 岩波書店発行の「図書」11月号の巻頭に、フランス文学者の鹿島茂氏が面白い一文を寄せている。

 昔は書物を読むことから始まって、作者に同化し、やがて自他を比較し自我の独立性を発見するに至った過程があり、その上で「書く」行為となっていたが、最近は初めからユニークな自己ありきを前提として、読む必要はない、書くだけと云う天上天下唯我独尊タイプが増え、「書く人」ばかりの「カラオケ社会」となってしまったと断じている。実に明快。「カラオケ社会」とはよくぞ云ってくれた。拍手。まさに、その通りだろう。

 かく云うカラオケの嫌いなみのる君なんぞも、最近はすっかり本を読まなくなってしまい、耳が痛いが、多少は意欲が残っている(つもり)から、拍手を送る気にもなる。同化に同感。自他の確認作業には、人様の影響を受けることが必要だろうね。

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2006年12月13日 (水)

日本史史料完結

 やっと岩波書店発行の「日本史史料」が完結した。仕事帰りに本屋に寄って引き取ってきた。「古代」に興味があって、勢いで買い始めたが、9年もかかるとは思わなかった…。勢いって怖いね。

 これで予約している書籍がなくなった。ちょっと寂しい気もするが、今のところほしいなと思う魅力ある本が見当たらない。これも寂しい話さ。

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2006年11月 1日 (水)

日本史史料は12月発行

 岩波の「日本史史料」は12月8日発行。再び発行日が伸びてしまった。本屋からの連絡と「図書」で知った。もっと早い時期に分かっていれば、わざわざ本屋まで出向かずに済んだのに…。

 でも、一体何故こんなに延期されてしまうのだろうか。「史料」はすでに確定した歴史素材の訳で、私見やら改ざんの余地がない分、出版は楽だと思うけれどね。史料の取捨選択は大事だろうけれど、吟味する時間は十分あったはずだ。史料価値の判断は読者に委ねればよい。史料全てを網羅できるとは誰も思っていないし、抜けがあったり、偏向があっても好みの範疇で片付く話だ。不行き届きの段はゴメンナサイで済むと思うけれどね。

 そもそも第一回配本の「現代」がおかしい。1997年の発行だけど、「現代」こそ最終巻にすべきだったと思う。歴史的評価が不確定の「現代」を最初に発刊したけれど、全5巻が完結を迎えるまでに9年の歳月が経っている。この間に新しい「現代」史料がどんどん蓄積されているはずだ。1年で全5巻が完結していれば、97年当時の「現代」として価値が生きていたはずだと思う。何で現代を第一回に配したのだろう。編集の意図が分からない。

 岩波さんは遅れの言い訳もしない。潔いのか厚顔なのか。市井の熱心なファンを忘れないでほしいな。

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2006年10月30日 (月)

岩波の新日本古典文学大系

 岩波書店の「新日本古典文学大系」は全100巻(最終的には105巻になった)もある。これも第1回配本の「方丈記 徒然草」からコツコツと購入してきた。

 スタートは1987年1月。100巻だから、毎月1巻ずつ配本されても100ヵ月もかかる。1995年中には終わるだろうと思うが、実際に最終巻の「古事談 続古事談」が出版されたのは、昨年、つまり2005年11月だ。実に18年もかかった。

 和歌の八大集が全て収録されているので全巻購入する気になったけれど、18年もの歳月がかかると分っていたなら、絞り込めば良かった。

 最初は3000円でスタート。消費税なんてなかった。最終巻は5600円で消費税が5%だ。時代の移ろいも定価に反映している。

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2006年10月29日 (日)

案の定と云うべきか…

 本屋から岩波の「日本史史料」入荷の連絡がないものだから、昨日はわざわざ本屋まで出向いたけれど、案の定と云うべきか、やはり、刊行されていなかった。岩波さんよ、一体、いつになったら完結してくれるの。首を長くして待っているのに、いい加減にして貰いたいな。

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2006年10月27日 (金)

岩波の日本史史料やっと完結

  岩波書店の「日本史史料」(全5巻:歴史学研究会編)がやっと完結の由。わずか5冊ながら、完結までに実に長い年月がかかった。

 第1回「現代」が出たのは1997年4月、第2回「近代」は同年7月。ここまではほぼ順調と云える。第3回「中世」は1998年3月に刊行。1回目から約1年後。それからが長かった。

 「図書」を購読しているので、毎月のように新刊案内に目を通しては、今か、今かと待ち続けた。

 やっと、第4回「古代」(これが一番の楽しみだった)が出版されたのは、2005年5月。何と7年の歳月を費やしている。そして、今月25日、最後の「近世」が発行された(と思う。未だ、書店から入荷の連絡がないから疑心暗鬼状態)。これも楽しみにしていた。

 たった5冊なのに第1回からは延々と9年。随分と時間がかかった。悠長な刊行物もあったもんだ。

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