カテゴリー「文化・芸術」の110件の記事

2008年6月20日 (金)

名月や座にうつくしき顔もなし

 元禄3年、芭蕉47歳の句、

 名月や座にうつくしき顔もなし

 一同が名月を鑑賞している。ふと我に返って回りを見回すと、不細工な顔の連中ばかり。理想と現実のギャップと云った感じ。感動的な映画がを観終わって、何気なく座席のとなりを見ると、強面の男が映画に感動して泣いているではないか。おいおい、と云った風情(ちょっと例えが極端かな)。

 この句は、改案して「月見する座に美しき顔もなし」となるが、最初は「名月や児(ちご)立ち並ぶ堂の縁」だったが、これを「名月や海にむかへば七小町」と改める。更に、気に入らないとみえて、再度推敲して、「名月や座にうつくしき顔もなし」となる。そして、最終的に「月見する…」で落ち着いた由。最初に掲げた「名月や座にうつくしき顔もなし」が、やはり秀逸だろうな。

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2008年6月15日 (日)

やがて死ぬけしきは見えず

 元禄3年、芭蕉47歳の句。前書に「無常迅速」として

 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

 芭蕉が近江の幻住庵(現大津市国分)にしばらく滞在していた時の句。地上に顔を出してわずか一週間程の蝉の寿命。そんなことは想像も出来ないような、蝉の賑やかな鳴き声。「無常迅速」と云う前書が良い。

 芭蕉は、幻住庵滞在中に自らの半生を顧みている。「幻住庵記」の最後に、「凡そ西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵における、利休が茶における、賢愚ひとしからざれども、其貫通するものは一ならんと、背をおし、腹をさすり、顔しかむるうちに、覚えず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終りもこれにおなじく、夢のごとくにして、又々幻住なるべし」としたため、「先(まず)たのむ椎の木もあり夏木立」と「頓て(やがて)死ぬけしきも見えず蝉の声」を挙げている。ここで示した蝉の句は「けしきも見えず」となっている。

 さてさて、「けしきは見えず蝉の声」と「けしきも見えず蝉の声」、どちらが良いのだろか。「は」を選ぶか、「も」を取るかは、多分、読み手の人生観が反映するだろうね。みのる君は「は」を採る。

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2008年6月14日 (土)

漱石「草枕」を教材に

 夏目漱石の「草枕」冒頭は含蓄があって、教材に活用出来る。

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。」と云うお馴染みの文章を提示して、この意味を事例を用いて説明せよ、ついで、これを引用して管理者の心構えを論ぜよ、併せてテレビ論も展開せよ、と職場の教育に使った。

 文章を的確に理解する訓練と物事を論理的に考える力を養うことが主眼。正解なんてものはない。本人が一生懸命考え、苦心して自説を展開すれば良し。

 近頃は考える機会が少ない。仕事でも日常生活でも、大半はルーチンワーク。更に云えば、大抵は選択肢から次の手順や行動を選ぶだけ。

 いきなり国語問題を出したものだから、出された方は相当面食らったみたい。学校で学んだ事柄は卒業と同時にリセットしているから、今更、国語も無いと云った感じ。仕事にもまるで関係無い。

 しかし、提出期限までにきちんとまとめて来た。しかも、堂々と持論を展開している。冒頭の文章も理解している。ネットやあちこち情報収集に奔走した跡も窺えるけれど、無難にまとめてあった。人間関係のややこしさに触れ、上司と部下の関係にも言及しており、テレビ論も3つのジャンルに当てはめた理屈を述べているし、まぁ、及第点かな。

 智に働けば角が立つ。宴席で自慢話をすれば白けるし、情に掉させば流される。勧められるままに呑めば二日酔い、意地を通せば窮屈だ。カラオケを強要されても決して歌わない頑固さも気まずい。職場に置き換えれば、理屈だけでは部下は動かない、部下の言い訳ばかり聞いていては仕事がはかどらない、周囲の事情も考えず、計画をゴリ押ししても駄目。日頃、管理者が頭を抱える問題そのものが漱石の「草枕」冒頭に掲げられている。

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2008年6月 7日 (土)

朝謡はうたわぬこと

 醒睡笑の一節をご紹介。角川文庫版より。

 「朝謡はうたはぬ事」とも、また「朝うたひは貧乏の相」ともいひ伝へたり。みな僻事(ひがごと:間違い)なり。本説(ほんぜつ:確かなうわさ)は、麻をまく時、謡をうたふなと誡(いま)しむる。その故は、麻は節をきらふ程に。

 「朝謡いうたわぬ事」はことわざ。朝から遊ぶことに気を取られるような心掛けでは貧乏になるに決まっていると云うこと。朝っぱらから遊ぶなと云う教えは昔も今も同じだね。これを冷やかした小話。

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2008年5月29日 (木)

古事記「東征」の続き

 広島、岡山を支配下に治めた神武軍は、次に大阪湾に向かう。以下、岩波文庫版より抜粋。一部表記簡略。

 浪速の渡りを経て、青雲の白肩津に泊(は)てたまひき。この時、登美(大和地方の登美)の長髄彦(ながすねびこ)、軍を興して待ち迎えて戦いき。ここに御船に入れたる楯を取りており立ちたまひき。かれ、そこを名付けて楯津と謂ひき。今は日下の蓼津(たでつ。場所は不詳。大阪周辺か)と云う。ここに登美彦と戦いたまひし時、五瀬命、御手に登美彦が痛矢串(いたやぐし)を負いたまひき。これ、ここにのりたまひしく、「吾は日神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず。ゆえに、賎しき奴が痛手を負いぬ。今より行き廻りて、背に日を負いて撃たむ」と契りたまひて、南の方より廻りいでましし時、血沼(ちぬの)海に到りて、その御手の血を洗いたまひき。血沼海と謂うなり。そこより廻りいでまして、紀ノ国の水門(みなと)に到りてのりたまひしく、「賎しき奴が手に負いてや死なむ」と雄叫びして崩(かむあが)りましき。その水門(みなと)を名付けて男の水門と謂う。御墓は紀国の亀山にあり。

 神武軍がナガスネ軍の抵抗に遭って往生している様子が生き生きと描写されている。日の神が東に向いて戦った為、五瀬が負傷。逆光では不利とばかり、南に下って、和歌山県の御坊市辺りに向かう。その途中、負傷した五瀬が死亡。その際、「敵に撃たれて命を落とすとは、何とも悔しい」と志半ばの五瀬の無念を見事に表現している。古事記中、このくだりが最も躍動的。「男の港」なんて名付けた辺り、ちょっと鼻白む。

 この後、神武軍は熊野から上陸し、八咫烏の導きで吉野へ向かう。そして、快進撃を続ける中で、「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ(はいもとほろう) 細縲(しただみ)の い這い廻り 撃ちてし止まん」と神武軍の勢いを歌に詠んだ一節が出てくる。敵を倒すまでとことん攻めるぞ、と勇ましい。やがて、「撃ちてし止まん」が、後世、日本軍の進撃ラッパの如くに膾炙する。

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2008年5月28日 (水)

古事記「東征」

 古事記の中巻、神武天皇東征の部分を抜粋。岩波文庫版。一部表記簡略。

 神武天皇、その同母兄五瀬命とニ柱、高千穂宮に坐して議りて、「何処に坐さば、平らけく天の下の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東に行かむ」とのりたまひて、すなわち日向より発たして筑紫にいでましき。かれ、豊国の宇佐に到りましし時、その国人、名は宇佐津彦、宇佐津姫の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、大御饗(おおみあえ)たてまつりき。其地より移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上りいでまして、安芸のたけりの宮に七年坐しき。またその国より移り上りいでまして、吉備の高島宮に八年座しき。

 高千穂にいた神武、五瀬の兄弟が天下統一を図って、東に向かう。まず、宇佐に行き、歓待を受けた。そこから福岡県遠賀郡芦屋に移って、一年を過ごす。次に広島県に移って七年を過ごし、次に岡山県に移って、八年を過ごした。ざっとこんな内容。

 東征の過程で各地に長く滞在している意味について、以前は軍備を整えていると解していた。神武軍が東征に当たっては、軍隊移動に食料確保が重要であろうから、各地で戦力確保の為に食料等の調達が必要だった。そう解釈すれば、福岡や広島、岡山での長期滞在も肯ける。古事記の文章を浅学が解釈した結果だから、専門的な裏付けは無い。

 最近、九州各地をドライブして帰宅後、改めてこの件を読み返したが、浅学の半可通で、違った解釈に至った。

 神武軍は、まず宇佐を占拠し、次に福岡の遠賀川流域を確保、足場を固めた上で、関門海峡から瀬戸内海沿いに広島へ進撃。そこで幾多の困難を克服して広島、岡山周辺を確保(合せて15年の歳月?)したのではないか。広島、岡山辺りを手中に収める為に、膨大な軍事費(要するに食料と武器調達と兵士補充等)を投入したに違いない。では、神武軍の東征を妨げ、悩ませた原因、即ち敵対勢力とは何か。それは、多分、出雲の大国主だったのだろう。当時、日本列島各地には強大な勢力を誇示する豪族が割拠していたはずだ。吉野ヶ里もしかり。神武軍は、こうした地方豪族を次々に支配下に治めていったのだろう、と思う。こう解釈すると、古事記の神武天皇東征のくだりがすんなり理解出来る。大国主神話が上巻に散りばめられているのも、東征の成果を物語る為と理解出来る。現地を自ら確認して来たから、以前より説得力の増した仮説となったかな。なんて、悦に入っている。

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2008年5月20日 (火)

方丈記の地震記事

 方丈記に1185年(元暦2年)7月9日の大地震の記事がある。岩波版新日本古典文学大系ではカタカナ表記となっているが、平仮名表記、一部漢字表記に変えて以下の通りご紹介。

 おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海はかたぶきて陸地を浸せり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は足の立ち処を惑わす。都のほとりには、所々堂舎・塔廟一つとして全からず。或いは崩れ、或いは倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き家の破るる音、雷に異ならず。家の内に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地破れ裂く。翼無ければ空をも飛ぶべからず。龍ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりければ、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かく夥しく振る事は、暫くして止みにしかども、その余波、暫く絶えず。世の常驚く程の地震、ニ三十度振らぬ日は無し。十日二十日過ぎにしかば、ようよう間遠になりて、或いは四五度、ニ三度、若しは一日まぜ、ニ三日に一度など、大方その余波三月ばかりや侍りけむ。

 被害状況や余震の状況も詳しく書かれている。理科年表をみると、この時の地震の規模はおよそマグニチュード7.4。阪神・淡路大震災のM7.3とほぼ同規模か。中国四川省の大地震がM7.8(後にM8.0)。自然の脅威に肝を潰す。速やかな復旧を俟つしかないが、自然環境を基盤にした人智の何と脆弱な事か。

 鴨長明は翼や龍を夢想したが、人智はその翼を手に入れ、空を飛ぶことも可能になった。しかし、地面が割れては降りる場所が無い。燃料が無ければ飛ぶ事も出来ない。電気が途絶えればインターネットもお手上げ。足元に陥穽有り、だ。

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2008年5月 6日 (火)

草臥れて宿かる比や藤の花

 貞享5年(元禄元年)、芭蕉45歳の句。

 草臥れて(くたびれて)宿かる比や藤の花

 夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見る。芭蕉が伊賀の門人の惣七に宛てた書簡には「ほととぎす宿かる比の藤の花」。旅の疲れを癒してくれる花の景色。ホッとした芭蕉の心境かな。「草臥れて」なんて、何気なく発する話し言葉を使っている所がミソ。疲れた、疲れたと云って、その辺のベンチに腰を下ろすと、目の前に今が盛りの藤の花がある。こいつは好いや、つい顔がほころぶ。そんな情景。「宿かる」は「宿を借りる」と云う意味。つまり、そろそろ夕方と云う時間帯。朝から歩いていれば草臥れる時間だ。

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2008年5月 4日 (日)

愚にくらく棘をつかむ蛍哉

 延宝9年、芭蕉38歳の句。

 愚にくらく棘(いばら)をつかむ蛍哉

 「愚に暗い」とは自らの愚かさに気付かないと云う意味。ホタルを捕まえようとして、うっかりバラを掴んでしまった。イタッ。間抜けだな。痛い、痛いと手の甲を舐めている姿が想像出来る。ホタルを鑑賞している時間だから、当然、周囲は暗い。足元にご用心と云った暗闇で、誰もが経験しそうな迂闊な失態。

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2008年5月 2日 (金)

夏の月御油より出でて赤坂や

 延宝4年、芭蕉が33歳の句。

 夏の月御油より出でて赤坂や

 東海道五十三次の宿場の中で、御油(ごゆ)と赤坂(いずれも愛知県豊川市)の間は最も短い。2㌔にも満たない十六町だったそうだが、この短い距離を夏の月の短さに例えた句。夏の月は短いな、まるで御油と赤坂の間みたい。

 ちなみに、当時、御油や赤坂は風俗営業が盛んな宿場だった。わずか2㌔も離れていない宿場町で派手な客引き合戦が繰り広げられていた(広重の「東海道五十三次」の「御油」には強引な客引きが描かれている。「赤坂」は女が化粧する図が書き込まれており、街道の賑わいを彷彿とさせている)。そんな宿場を33歳の芭蕉はどんな心地で歩いたのだろうか。呑気に月をめでていた訳ではあるまい。執拗な客引きにウンザリしたか、ついつい誘いに乗ったか。悪所が評判の宿場町での芭蕉の心境を想像するのも面白い。

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2008年4月10日 (木)

花の雲鐘は上野か浅草か

 貞享4年、芭蕉が44歳の時の句、

 花の雲鐘は上野か浅草か

 花曇りの日、遠くで鐘の音が聞こえる。あれは上野寛永寺の鐘か、浅草寺の音かしら。花見で酔っ払っていた時代とは趣きが異なる。喧騒から静寂へ。「古池」をモノにした翌年の句。音に拘泥し、やがては「岩にしみ入る」世界へつながっていく。

 芭蕉には桜を詠んだ句が比較的少ない。少ない中でも秀逸と誉れ高い句だが、発想は「いずれが菖蒲か杜若」の類いだろう。あえて二者択一を掲げて面白さを狙っている。音の世界を巧みに取り込んで、花見に興じる喧騒に一石を投じたか。

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2008年4月 9日 (水)

瓢箪斎と自らいへり

 延宝8年、芭蕉が37歳の折の句、

 花にやどり瓢箪斎と自らいへり

 花見で酔っ払う。清貧を気取って自らを「瓢箪斎」と云ってみる。磊落さを擬した句。時にはこうした心境もあって良い。酒は呑むべし。酔うべし。一工夫に力を入れていた談林時代の芭蕉の苦心の作だろうね。酒の成せる技か花に惑わされたか。花見の時期の酔狂。

 昨日の雨で我が家の庭一面が桜の花びらで埋め尽くされた。掃除が大変。車にもへばりついて、迷惑千万と云った感じだ。

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2008年4月 8日 (火)

姥桜咲くや老後の思ひ出

 漢文4年、芭蕉21歳の作、

 姥桜咲くや老後の思ひ出

 芭蕉作としては2番目に古い句。貞門俳諧時代。まるで品が無い。姥桜が老後に一花咲かせようとしていると云った意味。「思ひ出」は「おもいいで」と読む。まだまだ若輩者の気負いだけ。松江重頼編「佐夜中山集」に、伊賀上野松尾宗房名で入集。2句が入っているから、実力の片鱗が窺えるか。

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2008年3月29日 (土)

弁慶の悩み

 「醒睡笑」(角川文庫)から、ちょっとクイズみたいなお話を紹介。

 義経東国下向の時、一夜の宿を借られけり。弁慶、あるじの女房に、「子はいくたり候ぞ」と問へば、「てての子六人、母の子六人、合せて九人候」とこたへしを、何とも当座(即座にの意味)にあたらず。明の日(翌日)も案ずるとて、弁慶道を七里あゆみおくれたるとなん。

 (注)魏の曹操の「有智無智三十里」の故事(智恵のある者と無い者では甚だしく差がある。無智の者は三十里も歩かなければ智恵ある者の考えが分からないと云ったこと)を引用して、弁慶が答えに気付くまでに七里も歩いたとからかっている。

 ここまでが前段。父の子供6人と母の子供6人を足せば12人となるはずなのに、9人と女房が答えたので、弁慶はすっかり考え込んでしまった。以下、答えが続く。

 これは、ててに始めの腹の子三人あり。母にも始めの夫の子三人あり。今夫婦の中に三人出来たり。ててに別けてみれば六人、母に別けて見れば六人、されどもきはまりは(結局は)九人。「子は九人ある」と言はいで。

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2008年3月27日 (木)

無常諸行

 久々に「醒睡笑」(角川文庫)の一節をご紹介。

 諸行無常を、無常諸行と書きたる卒塔婆のわきに、
   無常はといかなる人の諸行ぞや
         外は恥かしうちに立ておけ

  「諸行無常」と云うのが正しいけれど、どこぞのアホが「無常諸行」と引っくり返しに書いた卒塔婆を立てており、その脇にくだんの歌が添えられていた。「無常諸行」なんて書いた奴の所業が知れない。みっともないからしまっておけ、と云った意味。ここで云う「外は恥かし」の「外は」は、勿論「卒塔婆」を懸けている。「卒塔婆恥ずかし」とアホの御仁をからかっている。

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2008年3月 7日 (金)

容顔無礼

 芭蕉が24歳(漢文7年)の時の句、

 寝たる萩や容顔無礼花の顔

 駄洒落の句。美人を称して「容顔美麗」と云うが、起きている萩は美麗だが、寝ている萩の花とは無礼じゃないか。言葉青遊びに過ぎないけれど、「容顔無礼」と発想する所は、芭蕉も男なんだなと思う。顔立ちは美しい方が良いと云うのは古今東西男子の発想。今と同じだね。不美人を捕まえて「容顔無礼」なんて口走ったら、今ではセクハラで訴えられてしまうかも知れない。

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2008年3月 6日 (木)

水とりや氷の僧の沓の音

 芭蕉の「野ざらし紀行」(貞享2年。芭蕉42歳)に、「二月堂に籠りて」と前書して、

 水とりや氷の僧の沓の音

 奈良東大寺二月堂のお水取り(修二会~しゅにえ)を目撃した折の句。苦行を引き受けた僧侶達の祈願法要の迫力を凍りつくような寒さ、厳しさの連想と堂内に響き渡る下駄の音で表現している。東大寺のお水取りを見物した芭蕉の旅のエッセイみたいなものだね。

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2008年2月23日 (土)

古池や蛙飛び込む水の音

 貞享3年春、芭蕉が腹痛で餅が食えず、桃の花をめでていた頃の句、

 古池や蛙飛び込む水の音

 芭蕉庵に40名もの門弟が集まって「蛙」の句合を行った。巻頭の芭蕉が一句が人口に膾炙された上記の句。

 最初、「蛙飛び込む水の音」と云う下の五七が浮かんだ。さて、上の五文字をどうしようか、などと悩んでいると、傍らの其角が「山吹や」では如何でしょうかと提案、うーん、ちょっと違うな。芭蕉は其角の意見を却下。突然浮かんだのが「古池や」の五文字。うん、これで行こう。「古池や蛙飛び込む水の音」、良い雰囲気じゃないか。他にも「蛙飛ンだる水の音」(芭蕉以前の桃青を名乗って「庵桜」に載っている)なんて作ってみたけれど、「飛び込む」方がよほど味があるぞ。弟子たちも賛成。蕉風確立の瞬間はほとんど思い付き、即興の作だった。

 蛙の鳴き声でなく、水の音に視点を移した所が芭蕉の求めて止まなかった世界。騒々しい蛙の合唱でなく、かすかに水面を叩く蛙の動きを詠んだ所が目新しい。音なんか聞こえるかな、なんて詮索は無用。この際、想像で十分。

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2008年2月22日 (金)

煩へば餅をも食はず桃の花

 貞享3年、芭蕉43歳の句、

 煩へば餅をも食はず桃の花

 折角の桃の節句なのに腹痛でも起こしたのだろうか、餅も食えない。仕方なく桃の花を眺めている。そんな所か。おめでたい席なのに、調子が悪いから元気が出ない。皆さんには申し訳ないが、花でもめでてじっと我慢しましょう。残念無念の心境。「食えず」としないで、「食はず」とやせ我慢の呈。昭和37年発行の岩波書店、日本古典文学大系「芭蕉句集」にはこの句が載っていない。何故かしら。

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2008年2月 7日 (木)

霰聞くやこの身はもとの古柏

 天和3年冬、門人たちの尽力で一年振りに芭蕉庵が再建された。一時は甲斐の国で避難生活を送っていた芭蕉だが、この間に郷里で母が没している。家を失い、母を失った一年。芭蕉の心境は如何だったか。再建なった草庵に入った40歳の芭蕉が句、「ふたたび芭蕉庵を造りいとなみて」と前置きして、

 霰(あられ)聞くやこの身はもとの古柏

 枯れても枝から離れずにいる柏の葉があられに打たれて(パタパタと)音を立てている。まさに自分自身だ。打たれても昔のまま、少しも変わってはいない。などと自嘲気味の感もあるけれど、門人たちへの配慮もあったのだろう。

 翌年、野晒しの旅に出る。いよいよ一所不住の実践となる。蕉門も確立し、喰っていける自信も付いたから旅立ちを決意出来たとも云える。弟子や友人、知己を得て旅先の不安も無くなったのだろう。したたかとも云える。

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2008年2月 6日 (水)

天和2年、芭蕉庵焼失

 天和2年12月28日、江戸は駒込の大円寺より出火した大火事で、深川の芭蕉庵も類焼した。芭蕉の高弟の其角が「枯尾華」に、「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり苫をかづきて煙のうちに生きのびけん、是ぞ玉の緒のはかなき初め也。爰に猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発して」と39歳の芭蕉が一所不住の心を強くしたと述べている。

 この大火を題材にした句はない。一旦は甲斐の知り合いの所に身を寄せ、再び江戸に下ってからも、暫時、消息がはっきりしていない時期。蕉風確立前、談林俳諧とは一線を画する斬新な表現方法や発想を模索していた時期の草庵焼失。余程ショックだったのだろう。

 天和3年夏、甲斐で避難生活中、「画讃」と題した一文と発句を発表している。

 かさ着て馬に乗たる坊主は、いづれの境より出て、何をむさぼりありくにや。このぬしのいへる、是は予が旅のすがたを写せりとかや。さればこそ、三界流浪のもも尻おちてあやまちすることなかれ(岩波文庫「芭蕉発句集」)
  馬ぼくぼく我を絵に見る夏野哉

 自らを坊主に見立てて、かつ、馬から落っこちるなよと自らを冷やかしながら、暑い夏を過ごしている。一所不住を意識し、流浪の覚悟が出てきたか。この句は苦吟したと白状しており、同様句が他に3つもある。

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2008年2月 5日 (火)

夕顔の白ク夜ルの後架に

 天和元年、芭蕉38歳の頃の句、

 夕顔の白ク夜ルの後架に紙燭とりて

 夜、明かり(紙燭~しそく)を持ってトイレ(後架~こうか~は便所のこと)へ行こうと部屋を出たら、闇の向こうに夕顔が白く見えた。源氏物語の「夕顔」とトイレを結び付けた句。面白いと云えば面白いけれど、如何なものかね。「後架」(便所)を持ち出した所に、蕉風確立前の芭蕉の苦心が窺える。

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2008年1月25日 (金)

艪の声波を打て膓氷る

 延宝9年、芭蕉が38歳の句、

 艪の声波ヲうつて膓氷ル夜やなみだ
 (ろのこえなみをうってはらわたこおるよやなみだ)

 漢文調に凝っていた時分の作。川近くの芭蕉が住処にギイギイと舟から艪の音が聞こえて来る。侘しい庵住まいの身を見つめた句。

 「武蔵曲(むさしぶり)」(天和2年刊)に出ているが、「夢三年」(ゆめみとせ:松雨撰、寛文12年刊)に「寒夜の辞」と題して前文がある。

 深川三またの辺に草庵を侘びて、遠くは士峰(富士山のこと)の雪をのぞみ、ちかくは万里の船(杜甫の『東呉万里ノ船』を引用)をうかぶ。あさぼらけ漕行く船のあとのしら浪に、芦の枯葉(西行の「津の国の難波の春は夢なれや芦の枯葉に風わたるなり」を引用)の夢とふく風もやや暮過るほど、月に坐しては空しき樽をかこち(李白の将進酒を引用)、枕によりては薄きふすま(布団のこと)を愁う。 (岩波書店版「芭蕉文集」)

 この前文の後に、「艪の声」が出てくる。延宝年間、芭蕉がさまざまな書物に触れながら精進していた事が窺える。杜甫や李白に接し、西行を学び、かつ試行錯誤の俳諧作りに精を出していた。漢文調も試行錯誤の一つ。

 それにしても、電気のない時代の夜に船を出すと云うのは、どんな状況なのだろうか。昔の人はよほど目が良かったのだろうね。

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2008年1月21日 (月)

雪の朝独り干鮭を噛得タリ

 延宝8年、芭蕉37歳の句、

 雪の朝独り干鮭を噛得タリ
 (ゆきのあしたひとりからざけをかみえたり)

 「富家ハ喰肌肉、丈夫喫采根、予ハ乏し」(金持ちはうまい肉を食べ<ふかはきにくをくらい>、大志を抱く者は粗食に甘んじている<じょうぶはさいこんをきっす>が、貧しい俳諧師である自分にはそういった生活には縁がない、と云った意味)と詞書の後に、上の句が出てくる。

 雪の降る寒い朝、侘しい深川の草庵暮らしの自分は干鮭を噛んでいる。漢文調の作風が目立つこの時期の芭蕉の精進ぶりが「噛得タリ」に凝縮している。金持ちを羨まず、立身出世も望まない。俳諧一筋に生涯を賭した決意を言外にほのめかしている。まだまだ気負いが抜けていない。

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2008年1月12日 (土)

手鼻かむ音さへ梅の盛り哉

 貞享5年、故郷の伊賀で正月を迎えた芭蕉45歳の句、

 手鼻かむ音さへ梅の盛り哉

 故郷で迎えた元旦は、呑み過ぎて朝寝坊だったらしい。人間臭くて宜しい。手鼻かむと云う発想が大胆。ティッシュがなければ手鼻が一番。少々汚いが、通りの良くなった鼻に梅の香が沁み込んだか。

 みのる君のカミサンが部屋に蝋梅を活けている。どう、いい匂いでしょうなんて云うけれど、みのる君はくさい臭いには敏感なくせに和みの匂いに弱い。だから、部屋に充満しているだろう梅の香りが味わえない。二日酔の芭蕉の大胆な句作りに感心するのみ。

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2008年1月 6日 (日)

門松やおもへば一夜三十年

 延宝5年、芭蕉34歳の句、

 門松やおもへば一夜三十年

 正月に自らが歩んだ三十余年を振り返る。そんな心境が句になっている。ようやく宗匠として喰っていける自信も芽生え、俺も随分と頑張って来たな、あっと云う間の三十余年だったが、いよいよ人生を楽しむぞ。そんな密かな願いもあったか知れない。一年の節目に来し方を振り返り、新たな決意ないし願掛けないしは打算を祈ったのだろう。よし、やるぞ。立派な新年のご挨拶だ。

 さて、今時の34歳は自分の半生を顧みるだろうか。まだまだそんな域には達しない、現状を生きるのが精一杯、年金すら貰えないかも知れない、地球温暖化が加速して何だかんだと規制が厳しくなって、将来の生活設計なんて組み立てる余裕もないし、当てにもならない、第一少子化が災いして税金も社会保険料の負担も今よりずっと重くなるは目に見えているし、一体、政治はどうなっているんだ、働けど我が生活楽にならず、じっと手を見るばかりが関の山、一夜明ければ物価高、貯蓄にまで手が回らない現状で青息吐息、なんて不満が聞こえそうだ。先が見えないと発想し得ない句かも知れない。

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2007年12月 1日 (土)

なりにけりなりにけり

 延宝四年、芭蕉33歳の時の作、

 なりにけりなりにけりまで年の暮

 山口素堂と「江戸両吟集」を湯島天神に奉納した年の作。人気も実力も付いて来て少々驕りも垣間見える。言葉遊びみたいな句。年の瀬も近い。それを奇抜な言い回しで吟じただけ。まさか、西行の「おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかかる白雲」なんかを意識していた訳じゃないだろうな。季節は違うし、「なりにけり」なんて常套句はいくらでもあるから、きっと意識外だろうけれど…。

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2007年11月28日 (水)

萩原朔太郎の「春雨」

 明治37年、旧制中学在籍中の萩原朔太郎が学友会雑誌に文章を発表している。抜粋してご紹介。

 春雨
 今日にてこの雨六日つづきぬ。文玉へと姉よりの繪はがきつきし朝、南の窓にもたれて詩集ひもとく。
 『こうべらぼうにさむいや』
 『そりゃきこえませぬ、傳兵衛さまか、アハハハ』
 職人風の男二人、相合傘に意勢よき高笑ひ。からたちの垣すかして見やれば、一人は大きな酒樽さげたり、一人は鼻唄うたいつつ道を左り、屈(かがま)りゆく。
 往来しばしとだえぬるに、庭の椿ニ片はらはらとこぼれつ。尚その一片もやと思ふとき、門にきこゆる大師和讃の調(ふし)も清らや。
 『南無大師遍照金剛………』
 げに事々に趣もつ春の小雨。

 捉えた情景は陳腐。二十歳前の朔太郎の気負いだろうね、ドラマチックを意識し過ぎている。若気の至り。あえて云えば「南の窓にもたれて詩集をひもとく」だけで十分。朔太郎にも若い時代があったと云うことさ。尚、この一文が載った学友雑誌に絵も発表しているが、一文よりよっぽど味がある。

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2007年11月24日 (土)

七重八重ここの家にも…

 岩波書店の日本古典文学体系に「徳和歌後萬載集」と云う狂歌集がある。大田蜀山人の狂歌を披露したついでに、いくつか面白い狂歌をご紹介。一部現代表記に改める。

 青々としげりし中にこの梅の花はくれない藪はくれ竹

 七重八重ここの家にも桜花かしこの山のあまり物かも

 足引の山鳥の尾のながき日に背比べしてたつ雲雀哉

 夜鳴くは珍しからず昼の野へ虫の寝言を聞きにこそゆけ

 諸共にあはれと思へお月さま国のなじみはおまえばかりじや

 あせ水を流して習う剣術の役にもたたぬ御代ぞめでたき

 俳諧の猿の小蓑もこの頃は狂歌衣をほしげなり

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2007年11月23日 (金)

大田蜀山人の狂歌

 大田蜀山人と云う江戸時代の戯作者の狂歌をいくつかご披露しよう。なかなか愉快。出典は岩波書店の日本古典文学大系。

 世の中にたえて女のなかりせばをとこの心のどけからまし
(ご存知在原業平の本歌取り:世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし)

 千早振神も御存知ない道をいつのまにかはよく教え鳥
(教え鳥はセキレイのこと。古事を知らないと意味不明の歌)

 世の中はわれより先に用のある人のあしあと橋の上の霜

 神々の留守をあづかる月なれば馬鹿正直に時雨ふるなり

 富士のねの表はするがうらは甲斐前は北面のちは西行

 すみだ川今は吾妻の都鳥業平などは在五中将

 もう一つ。出典を忘れてしまったが、面白い狂歌をご紹介しよう。蜀山人が婚礼に招かれての一首。花嫁衣裳の一行が歩いていると、たまたま向こうから葬式の列がやって来る。これを見た花嫁団体の一人が蜀山人に歌を所望する。請われて詠んだ狂歌、

 世の中は幸と不幸のゆきわかれあれも死にゆくこれもしにゆく

 一瞬、何の事か分かりにくい。じっくりと考えると笑える狂歌。昔、大笑いして読んだ覚えがあるけれど、すっかり出典を忘れてしまった。歌だけはしっかり記憶に残っている。

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2007年11月11日 (日)

秋深き隣は何をする人ぞ

 芭蕉最晩年の作。元禄7年。芭蕉51歳の生涯を閉じる直前。

 秋深き隣は何をする人ぞ

 寂寥感たっぷりの句。死を予感していたのだろうな。自分一人だけがぽつねんと臥していると、隣から賑やかな生活の音や声が聞こえてくる。寂しさが一層募り、いよいよ俺もお仕舞かい…。そんな心境だったかも知れない。諸君、お別れの時が来たぞ。いざ、さらば。そんな思いが凝縮した句。人口に膾炙されたイメージとはニュアンスが違う。

 この次に芭蕉最後の句、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」をモノにして逝った。「秋深き…」を作る一週間程前には、「この道や行く人なしに秋の暮」や「この秋は何で年寄る雲に鳥」を作っている。人生終焉間際に次々と傑作をモノにしている。死出の旅を覚悟していたに違いない秀句。

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2007年11月 3日 (土)

名月や池をめぐりて

 貞享3年、芭蕉43歳の作。

 名月や池をめぐりて夜もすがら

 芭蕉庵に其角らが集まって月見の会を催した折の作。一晩中、名月を眺めて池の周囲を歩き回るなんて、ちょっと大袈裟だね。句作りに悩んでいたのかな。蛙が飛び込んだ池を使って今度は名月をひねり出す。伝統と拮抗すると云う見方も出来る。

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2007年10月25日 (木)

醒睡笑から逸話を一つ

 醒睡笑(角川書店版)に載っているご存知の逸話をご紹介。

 小僧あり。小夜ふけて長棹(ながざお)をもち、庭をあなたこなたと振りまはる。坊主これを見附け、「それは何事をするぞ」と問ふ。「空の星がほしさに、うち落とさんとすれども落ちぬ」と。「さてさて鈍なるやつや。それほど作がなうてなる物か。そこからは棹がとどくまい。屋根にあがれ」といはれた。お弟子はとも候へ(弟子はともかくと云う意)、師匠の指南ありがたし。
 星一つ見つけたる夜のうれしさは月にもまさる五月雨の空

 最後に添えられた歌がいいね。うっとしい梅雨時の晴れ間だろうな、宵の明星でも輝いていたのだろう、久し振りに晴れた晩だから星一つでも見られて嬉しい。こう云う時は足元を照らしてくれる月よりも喜びは大きい。それだけの歌だけれど、電気のない時代だから大目に見てやらないとね。

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2007年10月23日 (火)

芭蕉は「ばなな」

 文芸評論家の高橋英夫が表記の題名で文章を書いている(新日本古典文学大系月報14:岩波書店)。吉本ばななを引き合いに出して、曰く、「芭蕉」そのものの名を称したのは、芭蕉の大胆さ、奇抜さに他ならなかった。曰く、異国趣味、気分高揚、遊び心、自己演技といったものの混合であり、敢て言うならばそれこそ「ばなな」的なのである等々。

 俳号を宗房、桃青、芭蕉と改めていく過程で、さまざまな先駆的(実験的)俳諧に挑んできた芭蕉の気迫を端的に論じている。氏が指摘する「気分高揚」、「遊び心」が、同時に多くの真偽不明の句や誤伝を生み出した背景にもなったのだろうと思う。あの人ならやりかねないねと云った、誤解を招いても不思議ではない奇抜さ、大胆さをもウリにしてきた芭蕉の冗談精神が俳諧文化に綿々と語り継がれたのだろう。それにしても、今日程には出版やマスコミ環境が整備されていない時代にあって、多くの誤伝、流布が生れる風土にも感心させられる。

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2007年10月21日 (日)

渋柿や一口はくふ猿の面

 芭蕉が作ったかどうか怪しいと、存疑に分類されている句、

 渋柿や一口はくふ猿の面

 小林一茶が亡くなった文政10年(1827年)、何丸(なにまる)と云う俳諧宗匠が「芭蕉翁句解参考」を刊行しているが、その中に収められている句。同集にはいずれも芭蕉の作として、「とめる気と見えて秋から炬燵哉」とか、「一夜ねて寒さくらべむ草の庵」とか、「旅じゃ喰へ都は目だつ柏もち」とか、芭蕉の若い時分を彷彿とさせる句が並んでいる。真偽は不明だが、渋柿を食った猿の顔なんて、いかにもと云う感じがしないでもないね。

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2007年10月19日 (金)

身にしみて大根からし秋の風

 芭蕉が「更級紀行」での句。奥の細道へ旅立つ前年の句。

 身にしみて大根からし秋の風

 痩せた辛い大根と秋風が身にしみるわが身。更科の旅が身にしみたのだろう。卑近な題材を使って、秋の風情を醸し出している。なかなか面白い。

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2007年10月17日 (水)

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

 元禄2年9月下旬、伊勢から帰郷の際に、山中で猿に出会った折の句。芭蕉46歳。「猿蓑」冒頭の句。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

 初時雨にあい、寒い、寒いと云って、慌てて蓑(みの)を取り出す。その時、猿を見付けて、おや、お前も寒いかい、小蓑でも欲しいかい。

 しかし、この句は可哀相だと云う内容ではない。猿に同情している訳ではない。自分もあの猿と同じだ。侘しいもんだと云った自省が働いている。野ざらし紀行の頃、「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」と芸術にうつつを抜かす輩を批判し現実を直視して苦しんでいたが、年を経ると、自らを猿になぞらえる視点も出てくる。年の功か。

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2007年10月 3日 (水)

吾輩は猫である

 夏目漱石の有名な作品の冒頭だけれど、漱石はどんな構想でこの作品を書いたのだろうか。

 神経衰弱が昂じて英国留学から帰国、一年余り後の明治37年12月、明治大学の講師も兼務していた38歳の漱石は、神経衰弱が小康状態の折に創作活動に励み、12月に「猫」の第一話を発表。多くの賛辞を得て、翌38年1月に「ホトトギス」にも発表。一気に名声を博す。

 「猫」については、漱石自身の戯画化とも文明批評とも、あるいは知識階級の性格とも、さまざまに論議されているけれど、思うに、もっと単純な発想から冒頭の一文が作り出されたのではないだろうか。その発想から次々と文章が生み出され、やがて、とんでもない文学に昇華していったのではないかな。

 学校で習う英語の最初は、みのる君の時代は「This is a pen」や「I am a boy」だった(今でも余り変わっていないかと思うけれど)。明治初頭の日本人が初めて英語を習得する際も、最初は「This is a pen」辺りから学んだのだろう(と思う)。漱石先生にしても、英語のとっつきは「I am a boy」辺りに違いない。「私は少年です」と云った英語を学んだ若輩者の漱石先生は、得意がって色々な名詞をくっつけて語感を楽しんだと想像出来る。その中にきっと「cat」もあり、「I am a cat」とやったに違いない。これは面白い。無邪気に英語の響きを喜び、「私は猫です」なんて堂々と云っていたのだろう。これが、やがて、そのまま小説のタイトルとなったと想像出来る。

  「私は猫です」では、ひねりがない。色々一人称を思い浮かべた結果、「我輩」が一番しっくりする。これで十分尊大な猫を想像出来る。威張った視点で世の中を茶化してやろう。そんな発想があったのだろう。英語習得の際につむぎ出された発想、単純明快な発想さ。

 威張っている割には冷静沈着振りも必要だろう。だから、次の文章は、必然的に「名前はまだ無い」と云う冷静な視点が出てくる。そこら辺の猫とは違うぞ。「名前が無い」と云うのは、人間様には隷属していないぞ、公正な第三者だぞと云う宣言でもある。人間様と一線を画しているぞと云う傲慢な態度でもあり、読み手である人間様はつい笑ってしまう。猫が生意気なことを云っていやがる。

 次に、猫は自らの出生の秘密を暴露する。「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た」と云うのは、自分は捨猫である、天涯孤独の身の上であると云う告白。そして、明治大学等で教鞭を執っていた漱石先生の、学生に対する鬱憤まで持ち出して、学生をコケにしている。そうして、読者は猫の語る「書生」に納得しつつ、次第に猫の語る世界へと誘われていく。

 多分、「I am a cat」→「我輩は猫である」→「世間と一線を画した視点」→「人間様の醜態を茶化す」と云う筋書きによって第一話が完成したのだろうと思う。

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2007年10月 1日 (月)

見れば須磨の秋

 芭蕉36歳の作、

 見渡せば詠むれば見れば須磨の秋

 談林時代の駄作。見渡しても、詠めても(ながめても)、見ても須磨の秋はあわれだと云う内容。源氏物語に出てくる「須磨の秋」のイメージにすがっただけの句。源氏物語が人口に膾炙されていた当時の文化事情は窺えるけれど、まだまだイメージに頼っていた時代の芭蕉の凡作。表現としては、全体から一部分へと視点の移動を工夫しているね。

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2007年9月18日 (火)

旧里や臍の緒に泣く年の暮

 芭蕉が44歳の折、故郷の伊賀へ戻った際の句。「笈の小文」にあるが、「歳暮」と云う俳文に経緯が詳しい。

 代々(よよ)の賢き人々も、古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。我今ははじめの老も四とせ過て(44歳と云う意味)、何事につけても昔のなつかしきままに、はらから(兄弟)のあまたよはいかたぶきて侍るも見捨てがたくて、初冬の空のうちしぐるる比より、雪を重ね霜を経て、師走の末伊陽の山中(伊賀上野)に至る。猶父母のいまそかりせば(生きていらっしゃれば)と、慈愛のむかしも悲しく、おもふ事のみあまたありて、
 古郷は臍の緒に泣くとしのくれ

 初老を過ぎると故郷が懐かしくなる。古里の老いた兄弟も気掛かりだし、一度里帰りしよう。「雪を重ね霜を経て」(移動中の苦労をきれいに表現している)、やっとの思いで伊賀に着いた。自分のへその緒(残っているのが凄い)を見て、昔日の父母の面影や自らの人生に思いを馳せ涙すると云う内容。若い頃の気負いが抜け、素直に心情を吐露している。「臍(へそ)の緒」は人生の出発点。自らの出発点を見て、どんな感慨を持ったのだろう。

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2007年9月13日 (木)

憂き我をさびしがらせよ

 芭蕉が48歳の時の作、

 憂き我をさびしがらせよ閑古鳥

 みのる君の好きな一句。閑古鳥(カッコウ)が鳴くような店の意味ではない。しんみりと句を味わえば良い。「嵯峨日記」の一節だが、この句の前段に、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑を失う」と云う文章がある。至極ご尤も。お客は気楽で良いが、亭主はエライ目に遭う。いつの時代も同じ、世の常だね。

 京都金福寺に句碑がある。昔、友人の東海ニ君とこの寺を訪ねたことがある。今年、久し振りに京都を訪問したが、この寺も寄ってみたいと思いつつ、カミサンの茶道精神に圧倒されて機会を失ってしまった。次回は是非巡ってみたい寺の一つ。

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2007年9月11日 (火)

ここもまた都のたつみ

 醒睡笑からパロディを一つ。

 西行法師、伊勢の宇治に住みける時の歌、

 ここもまた都のたつみしかぞすむ山こそかはれ名はうぢの里

 ご存知、百人一首にも出てくる歌、「わが庵は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」を踏まえた歌。今も昔も人間は諧謔精神に富んでいるものだね。

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2007年9月 9日 (日)

急くが癖

 下から読んでも同じ言葉になる文を回文と云う。「急く(せく)が癖」みたいな文。「食いに行く」とか「草花は咲く」(清濁は可)、「足しました」、「常の熱」、「田舎の家内」、「今朝の酒」、「私負けましたわ」等々。日本語の面白さだね。幾つか愉快な作品をご紹介しよう。

 遠くただ軒端を萩のたたく音(入舩狂句合)

 月を見き喜ぶころよ君も来つ(夢見草)

 消ゆる雪しばしやしばし消ゆる雪(新編柳多留)

 いい事を女に難を男いい(種ふくべ)

 ながき日に小猫と小ねこ二疋哉(崑山集)

 字に暗き田舎は家内気楽にし(入舩狂句合)

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2007年9月 4日 (火)

梢よりあだに落ちけり

 延宝5年、芭蕉35歳の作。

 梢よりあだに落ちけり蝉のから

 謡曲の「桜川」に「梢よりあだに散りぬる花なれあば」と「杜若」の「梢に鳴くは蝉の唐衣」を踏まえた句。梢に止まっている蝉が、飛び立つかと思えば、何だぁ(「あだに」は、「いたずらに」とか「空しく」とか「つまらない」と云った意味。言い換えれば「何だぁ」)、落っこちやがった。見れば蝉の抜け殻じゃん。

 「桜川」の「はらはら散る桜の花」、「杜若」の「梢で鳴く蝉」、これを合体させて、梢で鳴く蝉が桜の花のように落ちてしまった、と手品の種明かしみたいなどんでん返しを狙った句。談林俳諧時代の凡作ながら、芭蕉の真面目な句作りが窺えるね。一生懸命工夫している。

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2007年8月30日 (木)

塩にしてもいざことづてん

 芭蕉が36歳の句。

 塩にしてもいざことづてん都鳥

 かの「伊勢物語」の隅田川のエピソード、「名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」のパロディ。江戸に滞在していた青木春澄が京へ帰る際の送別句。都鳥を塩漬けにして土産に持たせてやりたい、と云った意味。談林俳諧。パロディに励んでいた時期。侘び・さびとは無縁の境地。

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2007年8月28日 (火)

オランダも花に来にけり

 芭蕉が延宝時代の句に、外国人を詠み込んだ句がある。

 阿蘭陀(オランダ)も花に来にけり馬に鞍

 能の「鞍馬天狗」にある「花咲かば。告げんといひし山里の。告げんといひし山里の。使いは来たり馬に鞍」(ないし源頼政の元歌)を引用している。オランダ人がやって来た。花見の季節もやって来た。よっしゃ、我等も花見に行こうぜ、馬に鞍を置け(馬に鞍を置くと云うのは出掛けるぞの意)と云った意味。長崎からはるばる将軍謁見のためにオランダ人がやって来るが、毎年、花見の頃だったと云う。芭蕉も外国人を間近に見たのだろうか。芭蕉と異国人の取り合わせが妙だね。

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2007年8月26日 (日)

猫の妻へっつひの崩れより

 延宝5年、芭蕉が34歳の句(桃青時代)、

 猫の妻竃(へっつひ)の崩れより通いけり

 伊勢物語に在原業平が築地の崩れから二条の后のもとに通ったと云う話があり、それを猫と竃(へっつい:かまどのこと)に置き換えて、伊勢物語を下世話な世界に引き下ろしている。王朝文学を卑俗化した所に談林俳諧らしさが出ている。お遊びに過ぎない。

 この頃、芭蕉は貞門俳諧から西山宗因一派の談林俳諧に関心を向けていく。俳諧は「夢幻の戯言」と云って滑稽諧謔を標榜する宗因一派の活動は、形骸化した貞門俳諧に興味を失いつつあった芭蕉の心を揺り動かしたのだろう。延宝年間は漢詩調の句を作ったり、「於春々大哉」と云った大胆な表現を模索したり、蕉風確立前の作風の変遷が窺える。

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2007年8月 3日 (金)

手にとらば消えん涙ぞ

 41歳の芭蕉が「野ざらし紀行」で故郷へ戻った時の一文(角川文庫版「芭蕉読本」~潁原退蔵~より)

 長月の初め故郷に帰りて、北堂の萱草(かんぞう)も霜枯れ果てて(「詩経」引用。前年に母を失ったことを表現している)、今は跡だになし。何事も昔にかはりて、はらからの鬢白く、眉皺よりて、ただ命有りてとのみ言ひて言葉はなきに、兄の守袋をほどきて、母の白髪をがめよ、浦島が子の玉手箱、汝が眉もやや老いたりと、しばらく泣きて、

 手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜

 亡母の法事を兼ねて帰郷した芭蕉が、兄と再会する。お互い年を取ったな、兄貴の髪が随分と白くなった、何とか生きているだけだ、無事が何より。芭蕉は兄と母の死を悲しみ、互いの無事を確かめ合う。兄が守り袋から亡母の形見の白髪を取り出して芭蕉に見せる。浦島太郎の玉手箱の逸話を引合いに、お前も老けたとしみじみと語る。確かに浦島ではないが、母の白髪は手に取れば消えてしまうのではないか、熱い涙で霜を解かしてしまうかのように…。芭蕉の母への思慕がストレートに表現されている。心情吐露の句。41歳にして初老は当時としては普通だったのだろう。今の41歳とはまるで違う。

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2007年7月21日 (土)

東海道中膝栗毛のご紹介

 ご存知「東海道中膝栗毛」は、今でも通用する会話の妙がふんだんにある。ごく一部をご紹介しよう。但し、読みやすく一部を現代かなづかい表記、漢字使用、読点追加。出典は岩波書店版日本古典文学大系。

親仁(おやじ) 「モシ、ちっとものを問いますべえ。江ノ島へはどう行きます」
弥次郎兵衛「おめえ、江ノ島へ行きなさるか。そんならこりよお、まっすぐ行っての、遊行さまのお寺(藤沢の清浄光寺)の前に橋があるから」
喜多八「ほんに橋と言やあ、確かその橋の向こうだっけ、いきな女房のある、茶屋があったっけ」
弥「それそれ、去年おらが山(相模の大山)へ行った時泊まった家だ。あのかかあは江戸ものよ」
北「道理で気が利いていらあ」
親「モシモシ、その橋からどう行きます」
弥「その橋の向こうに鳥居があるから、そこをまっすぐに」
北「曲がると田んぼへ落っこちやすよ」
弥「エエ、てめえ黙っていろえ。その道をずっと行くと、村外れに茶屋が二軒ある所がある」
北「ほんにそれよ。よく腐ったものを食わせる茶屋だ」
弥「そりゃあ、てめえの言うのは右側だろう。左側の家はいいわな。去年おらが行った時、ピチピチする鯛の焼物、それに大平が海老の跳ね出るやつに、卵とくわいと大椎茸に、そして」
親「モシモシ、わしはそんなものは食わずともようござる。そこから又どう行きます」
弥「そこをずっと行き当たると、石の地蔵様がありやす」
北「あの地蔵様は瘡の願に効くそうだ。おらがへたなすがあれで直った」

 口から出任せがポンポンと飛び出す。実に元気があって愉快な会話だね。今に通じる笑いのネタがたっぷり含まれている。たまには、こうした滑稽本も気分転換になる。

 以前、職場の懇親旅行で宿に泊まった折、コンパニオンに仕事の内容を訊かれたみのる君と同輩が、まるで無縁の商売の話を延々と大真面目に吹聴したことがある。同輩がうまいこと相槌を打つものだから、つい調子に乗ってしまった。弥次喜多さながらさ。相手も先刻ご承知だろうけれど…。酒席の他愛ない話。

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2007年7月13日 (金)

夏草や兵どもが夢の跡

 芭蕉が「奥の細道」に出てくる有名な句。46歳の作。

 夏草や兵どもが夢の跡

 奥州藤原三代の栄枯盛衰が17文字に凝縮している。杜甫の「国敗れて山河あり、城春にして草木深し」の焼き直しに過ぎないけれど、江戸時代の人間が、はるか以前の藤原三代の栄華に思いを馳せ、中国の詩を持ち出して句をひねり出す、門人たちも恐れ入ってしまうと云う環境に感心する。体系的な学校教育もなし、情報管理も不十分、情報伝達も風聞頼りみたいな時代にあって、各人が同じ情報を共有し、かつ共感し、共鳴する文化風土って、凄いなと思う。インターネットに頼らずとも、古今東西の情報を取り込める社会環境。今日、すっかり失われてしまった環境だ。

 昨年、吉田拓郎が「つま恋」コンサートで、「若者どもが夢の跡」って云っていたけれど(「春だったね」の前フリ)、あれは勘違いかね、それとも彼なりの換骨奪胎だったのかな。ちょっと引っかかった言葉だった。

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2007年7月 9日 (月)

七夕のあはぬこゝろや雨中天

 芭蕉24歳の頃の作。

 七夕のあはぬこゝろや雨中天

 いわゆる貞門風俳諧。せっかく年に一度の逢瀬なのに、雨が降ってしまった。「有頂天」を「雨中天」ともじっただけの句。駄洒落みたいな句。

 ちなみに、彦星(わし座のアルタイル)は16.8光年先、織姫(こと座のベガ)は25.3光年も先にある。とってもではないが、一年に一度だって逢える距離じゃない。

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2007年6月22日 (金)

帰り見れば蕎麦まだ白き…

 夏目漱石全集を紐解いていたら、思わぬ俳句を見付けた。

 帰り見れば蕎麦まだ白き稲みのる

 「帰り見れば」とは、中村是公に招かれて中国等を訪問した帰りのことだろう。岩波書店「漱石全集」第12巻699頁。

 「稲みのる」が出ているとは知らなかった。漱石全集は岩波版で2つと集英社版(専ら小説)がみのる君の書棚に鎮座しているが、普段は飾りっぱなし。漱石の小説を読破したるみのる君だが、漢詩や俳句までは目を通していなかった。まさか、自分の名前が出てくるとはね…。さすがに漱石先生、明治42年、すでに後年誕生する蕎麦好き(でも無いか)のみのる君を意識してくれていたのね。有難う。

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2007年6月 8日 (金)

おもしろうてやがてかなしき…

 芭蕉45歳の時、鵜飼を見物した折に作った有名な句、

 おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな

 長良川の鵜飼が大変評判である。なるほど確かに興をそそり、浅学には筆舌に尽くしがたいと云った感想を述べている。

 一杯呑みながら、鵜舟を待つ。やがて、かがり火に照らされて鵜舟が近付いてくる。まるでスポットライトを浴びたようだ。鵜匠のかけ声や鮎を獲る鵜の様子が闇に浮かび上がる。凄い、凄いと感心している内に、鵜舟は闇の彼方へと遠ざかってしまう。映画のワンシーンを見るような句。「やがてかなしき」は、もっと見たいと云う駄々っ子の感想か、それとも、根源的な悲しみなのだろうか…。

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2007年5月17日 (木)

和泉式部

 「御伽草子」に出てくるお話。

 中ごろ花の都にて、一条の院の御時、和泉式部と申して、やさしき遊女あり。内裏に橘保昌とて男有り。保昌は十九、和泉式部は十三と申すより、不思議の契りをこめ、情深くして、十四と申す春のころ、若一人もうけ給ひ、あひの枕の睦言に、はづかしやと思ひけん、五条の橋に捨てにけり。(岩波古典体系)

 和泉式部は和泉守橘道貞と結婚し小式部を生み、のち藤原道長の家司、藤原保昌と結婚。御伽草子は混同している由(同参照)。

 14歳の和泉式部が子供を生み、それを「恥ずかしい」と思って、橋のたもとに捨ててしまうストーリーって、強烈だね。まるで昨今の育児放棄と同じだ。

 この捨てられた子供は町人に拾われ、やがて比叡山に上る。そして、学問一筋。18歳となった時、内裏で法話を説くが、その折にすてきな女性に一目惚れしてしまう。一目会いたさに、蜜柑売りに成りすまして内裏に赴く。そこで蜜柑の数を数える際に数え歌(和歌20首)を披露すると、それが評判を呼び、一目惚れの彼女の耳にも届く。ついに念願が叶って、一目惚れの彼女と、一夜契りを結ぶ。

 ここで終わればめでたしだが、実は彼女は和泉式部だったと云う、とんでもない展開となる。母子が「比翼の契り」(男女の深い契り)とは言語道断の破廉恥さだね。和泉式部は罪の深さにショックを受け、出家してしまうと云う結末。

 こんな物語を当時の子女が愛読していたのかと思うと、ちょっと、オドロキだね。

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2007年5月16日 (水)

一寸法師

 室町から江戸時代初期にかけて数多くの短編物語が作られている。専ら子女の絵入り読み物として流布されていたが、その中から23編を選んだのが「御伽草子」。日本昔話の原型が多く含まれている。

 一寸法師も「御伽草子」に出てくる。冒頭は以下の通り。

 中ごろのことなるに、津の国難波の里に、おうぢ(老翁)と、うば(老婆)と侍り。うば四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に参り、なき子を祈り申すに、大明神あはれとおぼしめして、四十一と申すに、ただならずなりぬれば、おうぢ喜び限りなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子をもうけけり。
 さりながら、生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがてその名を、一寸法師とぞ名づけられたり。年月をふる程に、はや十二三になるまで育てぬれどもせいも人ならず。つくづくと思ひけるは、ただ者にてはあらざれ、ただ化物風情にてこそ候へ。われいかなる罪の報にて、かやうの者をば、住吉より給はりたるぞや、あさましさよと、みるめもふびんなり。(岩波古典体系)

 昔話の一寸法師とはニュアンスが聊か異なる。老夫婦にとって一寸法師は「化け物風情」であった。「みるめもふびん(不憫)」なのは、化け物風情の一寸法師でなく、嘆き悲しむ老夫婦の方である。どんな因果でこんな子供を授かったのかと云う発想。それも住吉大明神の所為にしてしまう。よくあるパターンだが、「神」への畏怖とその裏返しの恨みが、端的に表現されている。やがて、老夫婦は一寸法師を何処かへやってしまおうと考え、一寸法師にその旨を伝えると、一寸法師は事情を飲み込むが、その際、「親にもかやうに思はるるも、口惜しき次第かな」と悔しがる。

 家を追い出された一寸法師は都へ上り、奸計を弄して姫(歳は十三歳)を手に入れ、鬼を退治(と云うより、鬼が姫を奪おうとして逆に一寸法師にやられてしまうと云う展開)して、鬼が落としていった打出の小槌を使って大きくなり、富を得ると云うストーリーは流布に近い。所々に悪党面の一寸法師が出てくるが、概ね、昔話と同様。

 女をモノにしようとする物語を、当時の子女はどのように読んだのだろうか。又、草子を読めると云う環境も興味深い所だ。

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2007年5月 2日 (水)

月に名を包みかねて…

 5月連休を利用して、例年のごとくカミサンと長距離のドライブ。深更に自宅を出発。明け方5時に北陸自動車道南条SAで給油。眠気醒ましにエリア内を散策していたら、芭蕉の句碑を見付けた。 Photo_38

 これまでも何度かこのSAを利用しているが、こんなモンがあるとは知らなかったぞ。そうか、芭蕉は元禄2年、「奥の細道」で敦賀辺りをうろついていたっけ。ちょうど中秋の名月の頃。「月一夜十五句」にある一句。

月に名を包みかねてや痘瘡(いも)の神

 敦賀、湯尾峠には痘瘡予防の神様がいるとか。痘瘡を別名「いも」と云う由。痘瘡の神様はあまり好かれないが、十五夜の晩位は芋が話題に出て、隠し切れないと云った所。

 芭蕉の名前を見付けたので、写真を撮ってしまった。

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2007年4月15日 (日)

芭蕉の雑念

 44歳の芭蕉が「笈の小文」冒頭で、自身の半生を省みている。

 かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。ある時は倦て放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかうて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を曉ン事(しばらく学んで愚をさとらんこと)をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして、只此一筋に繋る。 (岩波書店版日本古典文学大系「芭蕉文集」)

 まず、俳諧(狂句と表現している)が好きで、生涯の仕事(はかりごと)にしたと述べている。けれど、色々と雑念も多いから、この決心は揺らいでしまう。

 雑念の1は、「倦て放擲せん(うみてほうてきせん)」。句作に励んでもなかなか気に入った句が出来ない。スランプと云う奴だね。悩んでも悩んでもうまく吟じえない。スランプ状態だから堂々巡りみたいなものさ。そんな時は、「もう、やめた」と放り出してしまう。誰もが経験するスランプを芭蕉自身も味わったと告白している。

 雑念の2、「すすんで人にかたむ事をほこり」。あの野郎の句が選ばれて俺の句が落選かよ。俺の方が上手なのに悔しい。などと歯軋りした経験もあって、いつかは俺が勝ってやると云う闘争心だ。他人を押しのけてでも勝ちにいきたい。結構俗っぽい告白。この雑念1、2の為に心中穏やかではない。勝ちたいけれど、スランプに陥って勝てない。闘争心が強い程、陥穽に落ちやすい。勝てば自慢、負けたら腹立たしい。そんな日々を送っていたのだろうな。

 雑念の3、「身を立む事を願う」こと。つまり立身出世。仕官を考えたこともあると白状している。伊賀で青春時代を送った芭蕉は、藤堂良忠亡き後、やがて江戸に下ることになるが、この時期、立身出世話もあったのではないだろうか。夢と現実、どちらを選ぶか。平々凡々としたサラリーマンに甘んじるか、あくまで夢を追い続けるか。二者択一を迫る。結局、芭蕉は夢に賭けた。それは又、彼の夢を応援する人の存在が窺える。金持ちの支援者の存在。江戸行きを決心した背景にパトロン(云い方は悪いが)の存在が感じられる。「これが為にさへられ」の「さへられ」は「妨げられ」の意味。

 雑念の4、「暫く学んで愚を」悟ること。学問に精進して自らの愚かさを悟ろうともした。高尚な決意だ。東西の古人に学び、あるいは仏道に修行して、真っ当な生き方をしよう。俗を捨てたい。ひたすら勉学に励み、世事に疎い人生を送ろう。雑念3ではサラリーマンとの二者択一、ここでは研究者か夢追い人かの選択に悩んだと告白している。

 結局、俳諧を捨てられなかった。「無能無芸」と自身を卑下しながら(俳諧の社会的地位が窺える発言でもある)も、朴訥のわが道を肯定している。確かに、生活基盤が確保されれば自信につながるしね。「笈の小文」最初の句が、「旅人と我名よばれん初しぐれ」。自省を述べた後に、自信に満ちた句を提示している。どうだ、まいったか。売れっ子になった芭蕉が胸を張っている句だ。

 わずか151文字の文章だけれど、含蓄のある151文字。芭蕉の心情吐露の151字。読み飛ばしてはいけない。じっくり味わべき文章だね。芭蕉の書いた「幻住庵記」にも同じような述懐が書かれている。

 ひたぶるに閑寂をこのみ、山野に跡をかくさむとにもあらず。病身やゝ人にうみて、世をいとひし人に似たり。何ぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、いと若き時よりよこざまにすける事侍りて、しばらく生涯のはかり事とさへなれば、終に此一筋につながれて、無能無才を恥るのみ。 (同上より引用)

 文章中、「いと若き時よりよこざまにすける(とても若い時分から下手の横好き)」と云うくだりがある。19歳で良忠に仕えることになった芭蕉だが、「いと若き」が良忠に仕えてからを意味しているのか、それともそれ以前からなのか。もしかしたら、以前からの俳諧知識がモノを云って就職出来たのかも知れない。

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2007年4月14日 (土)

雲と隔つ友かや雁の生き別れ