今から320年前の元禄2年(1689年)9月、大垣で「奥の細道」の旅を終えた46歳の芭蕉は、それから二年程、大津や京都、郷里を行ったり来たりの一所不住の生活を送っている。
まず、伊勢遷宮見学に始まり、二見浦を見物して古里に帰り、それから奈良の春日大社を見物してから去来を訪ねて京都を訪問(いわゆる不易流行を言い出した頃)、大津に戻って膳所の義仲寺で越年、その後、再び郷里の伊賀へ戻る。膳所に舞い戻ってから石山寺を訪ね、幻住庵に入る。それから、京都へ上ったり、唐崎や堅田を逍遥し、伊賀上野に戻ったり、奈良で薪能を見物したり、落柿舎に泊まったり、詩仙堂を訪ねたり、風邪を引くは、腹をこわすは、実に精力的に動き回っていた。
その前年の貞享5年(元禄1年)、奥の細道への出立前には、法事で帰郷した折に吉野行脚、高野山詣で、奈良で潅仏会を見たり、唐招提寺を見物、明石まで足を伸ばしている(笈の小文)。そして、更科は姨捨山の月を見てから江戸に戻り、いよいよ奥の細道の旅支度となる。
出来の良い門人たち(資力と能力を兼ね備えた人々)に恵まれた事。これが芭蕉の一所不住を可能にさせた。支援者がいなければこれ程の行程を呑気にこなせるはずが無い。又、タフでなければこなせない。
何故、芭蕉は旅の苦しさを厭わずあちこち動き回ったのだろうか。
多分、歌枕が大きなきっかけだった。「明石」にしても「大津」にしても、「辛崎」や「更科」、「高野」や「二見」も、「不破の関」も「室の八島」も、「小夜中山」も「松島」、「内外宮」も、芭蕉が訪ねた場所の多くは、歌枕になっている。先人が残した歌枕の地を訪ねてみたい。書物を読むだけでは面白くない。追体験が大事。
奥の細道の「立石寺」は、「人々のすすむるに依て、尾花沢より」とって返して見学に及んでいるが、歌枕でない「立石寺」の評判を聞き、恐らく予定外の行動だったのだろう、そんなに勧めるならば訪ねてみようと云う気持ちになった。だから、あえて「とって返して」と云う表現を使った。
今日程旅のガイドブックが普及し、整備されていなかった時代には、和歌等に詠まれた地名が手っ取り早いガイドとなる。西行の足跡を辿ろうと云った発想は、みのる君が「芭蕉」ゆかりの地をドライブしよう、と発想するのに似ている。
先人の詩歌や文章を読み、そこに描かれた見知らぬ土地を夢想する。一度は行ってみたい。単純な動機。芭蕉が現代に蘇れば、きっと車の免許を取って全国を走り回ったに違いない。
みのる君が新車を買って走り回った1万㌔。その多くは芭蕉が訪ねた場所だった。大津、大垣、不破の関、高野山や落柿舎、唐崎や堅田、室の八島に姨捨山。石山寺に幻住庵、義仲寺、詩仙堂、浮御堂。あえて意図的に足跡を辿ったドライブ。但し、みのる君には、実際歩いて追体験しようなんて考えは無い。芭蕉の見た景色の一端を味わえれば良し。歩くなんて身体に悪い。芭蕉は実体験を通して先人の思いを味わった。
野ざらし紀行は、「なつ衣いまだ虱をとりつくさず」と云う句で締めくくっている。
長距離ドライブの後は、寝不足が祟って、しばし体調が思わしくない事もある。腹具合が宜しくない時もある。ビールは美味いけれど、食欲不振にもなる。40時間も寝ないでいると、身体のあちこちが不平を並べるから、元通りになるまで時間がかかる。芭蕉も同じ。
知らない土地で便意を催す。道端の草叢が格好なトイレだが、家にいる時とは勝手が違うし落ち着かない。名物が美味しいとは限らない。背負った荷物が肩に辛い。毎晩の一宿一飯のお礼が煩わしい。野宿は腹が減るし。追い剥ぎの心配もある。昼間は汗だく。自販機も無い。喉は渇く。足に出来たマメが痛い。洗濯もままならないから、着物は汗臭いし、ホコリまみれ。風呂には入れないし、プールで泳げる環境でも無い。そりゃあ、虱もたかるわ。あぁ、面倒くさい。
無事に旅を終えたけれど、結構、大変だったぜ、と云うニュアンスがこの最後の句に含まれている。
でも、又、出掛けたい。奥の細道の冒頭の「道祖神のまねきにあひて」は、大変だけれど、旅は面白いぜと云う芭蕉の奥ゆかしい表現。道祖神が俺を呼んでるぜ。くだいて云えば、ネオンが俺を呼んでるぜ、と云うご同輩諸君の発想と同じだ。
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