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2008年5月13日 (火)

吉野ヶ里遺跡

 古代史にいささか興味を持つみのる君が、是非、見学したかった吉野ヶ里遺跡。九州ドライブを企画した時は、迂闊にもこの遺跡の事を忘れていた。道路地図を買ってきて、宇佐神宮や高千穂、熊本巡りのコースを検討中は気付かなかった。九州と吉野ヶ里が結び付かなかった所は大雑把な性格のみのる君らしい。何度か目かのコースの確認の時、あれれ、こんな所に吉野ヶ里があるじゃん、高速道路のすぐ近くじゃん、こりゃ、行かねばなるまい、と、ようやく遺跡の存在に気が付いた。

 九州と云えば唐津。カミサンは唐津行きを断固主張していたので、熊本から唐津までのコースを地図上で調べていたが、まさかその途中にいい按配に歴史公園が鎮座しているなんて知らなかった。関東者には、あまりに九州は遠い。土地勘が無くて当然さ。吉野ヶ里遺跡の見学を予定に組み込んだ為、唐津到着が遅れてしまう。カミサンはそれでも良し、と快く了解してくれたので、太宰府天満宮の道真公お参りは取りやめて、漱石旧居見学のあとは吉野ヶ里と決めた。みのる君最後の目的地。

 高千穂で目覚め、阿蘇を経由して熊本に寄り、吉野ヶ里を見学して唐津までの一日コースは、少々無謀と云うか、折角の九州なのに勿体ないと云う気がしないでも無かった。

 午後3時、吉野ヶ里歴史公園の駐車場到着。ここもすんなり車が止められた。反対車線側には駐車場に入る車が数珠つなぎだったが、関東ナンバーは信号の色が変わる瞬間を狙って強引に右折して割り込む。高等技さ。

 この日は入場料がタダだった。特別な日だったかしら。駐車料金も取られず、温かく迎えてくれた。有難い事です。時間的余裕も無かったので、オープンしたばかりの北墳丘墓(下の写真)までは見られなかったが、「南のムラ」を一巡、弥生時代の環濠集落の復元をゆっくりと見て回った。

Imga0201  甕棺や人骨も見たし、暮らしの道具類も拝見。しばし古代に思いを馳せる。魏志倭人伝に出てくる「末盧」が近くの松浦市かと思うと何となく倭人伝が身近に感じられる。

 平野部に広大な「ムラ」を構えた当時の状況とはどんなものだったのだろう。濠を掘って外敵の侵入を抑え、物見やぐらで四囲を監視する体制、頭部の無い人骨、埋葬に使った多くの甕棺、きっと凄まじい戦闘がしばしば繰り広げられていたのだろう。食べ物をめぐる争い。権力闘争。いつの時代も同じ。生きる為には犠牲が伴う。それにしても、頭を切られると云うシチュエーションって何だろうか。戦いで不幸な死に方をしたのだろうか。他人の食物を奪って処刑されたか。いずれにせよ、埋葬された経緯があるから名誉の戦死か、現代人が掘り出した場所は罪人の墓場か。想像が膨らむ。

 書物だけでは分からなかった現地の景色をこの目で見た。邪馬台国も「ムラ」の一つとして勢力を誇っていた時代。吉野ヶ里は平野部、高千穂はとんでもない山の中にあった。平野部に暮らすムラ人と山間部のムラ人では、恐らく思想や生活面に大きな隔たりがあっただろうね。高千穂の森の大木は住居建設に重宝する。吉野ヶ里の住まいや監視塔に使った大木は一体何処から運んだのだろうか。建築資材確保の利便性も「ムラ」の維持に欠かせない。吉野ヶ里がやがて歴史上から消えていく背景には、建築資材調達が困難だった面も考慮出来る。外敵も入りやすい地形と資材調達の不便さ。加えて稲作に適した地面も災いして頭部を失うような争いが頻発していたに違いない。次々と権力者が入れ替わりながら、やがては大和朝廷に制圧されてしまう。吉野ヶ里はこうした歴史を証言する遺跡かも知れない。

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コメント

僕も昔修学旅行で吉野ヶ里遺跡見に行ったことあるんですよね。
当時は特になんとも思わなかったですけど、そんな考え方もできるんですね。確かにそうかもしれません。

やはり修学旅行ですか。良いですね。
物事は色々な捉え方があるから面白いのでしょうね。学者の数だけ理屈有り、です。みのる君の考え方も一理です(笑)。 (稲)

投稿 元木 | 2008年5月13日 (火) 16時43分

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