古事記「東征」の続き
広島、岡山を支配下に治めた神武軍は、次に大阪湾に向かう。以下、岩波文庫版より抜粋。一部表記簡略。
浪速の渡りを経て、青雲の白肩津に泊(は)てたまひき。この時、登美(大和地方の登美)の長髄彦(ながすねびこ)、軍を興して待ち迎えて戦いき。ここに御船に入れたる楯を取りており立ちたまひき。かれ、そこを名付けて楯津と謂ひき。今は日下の蓼津(たでつ。場所は不詳。大阪周辺か)と云う。ここに登美彦と戦いたまひし時、五瀬命、御手に登美彦が痛矢串(いたやぐし)を負いたまひき。これ、ここにのりたまひしく、「吾は日神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず。ゆえに、賎しき奴が痛手を負いぬ。今より行き廻りて、背に日を負いて撃たむ」と契りたまひて、南の方より廻りいでましし時、血沼(ちぬの)海に到りて、その御手の血を洗いたまひき。血沼海と謂うなり。そこより廻りいでまして、紀ノ国の水門(みなと)に到りてのりたまひしく、「賎しき奴が手に負いてや死なむ」と雄叫びして崩(かむあが)りましき。その水門(みなと)を名付けて男の水門と謂う。御墓は紀国の亀山にあり。
神武軍がナガスネ軍の抵抗に遭って往生している様子が生き生きと描写されている。日の神が東に向いて戦った為、五瀬が負傷。逆光では不利とばかり、南に下って、和歌山県の御坊市辺りに向かう。その途中、負傷した五瀬が死亡。その際、「敵に撃たれて命を落とすとは、何とも悔しい」と志半ばの五瀬の無念を見事に表現している。古事記中、このくだりが最も躍動的。「男の港」なんて名付けた辺り、ちょっと鼻白む。
この後、神武軍は熊野から上陸し、八咫烏の導きで吉野へ向かう。そして、快進撃を続ける中で、「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ(はいもとほろう) 細縲(しただみ)の い這い廻り 撃ちてし止まん」と神武軍の勢いを歌に詠んだ一節が出てくる。敵を倒すまでとことん攻めるぞ、と勇ましい。やがて、「撃ちてし止まん」が、後世、日本軍の進撃ラッパの如くに膾炙する。
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