暑かったり涼しかったり
この所、天候が不順だね。5月初めの頃は好天気に恵まれ長距離ドライブも快適だったけれど、普段の生活に戻った途端、すっかり涼しくなってしまい(冬じゃないから寒いなんて云わない)、それから、又、夏がやって来て、ちょうど衣替えの季節だから、冬物一掃とばかりに生活に夏を取り込んだら、又、涼しくなってしまった。もう梅雨間近。梅雨寒(これは許せる範囲)かね。仕舞い込んだ毛布を出す始末。なかなか気温の変化に馴染まず、この所、身体も不順。年齢的な問題ではない。温暖化の所為さ。
この所、天候が不順だね。5月初めの頃は好天気に恵まれ長距離ドライブも快適だったけれど、普段の生活に戻った途端、すっかり涼しくなってしまい(冬じゃないから寒いなんて云わない)、それから、又、夏がやって来て、ちょうど衣替えの季節だから、冬物一掃とばかりに生活に夏を取り込んだら、又、涼しくなってしまった。もう梅雨間近。梅雨寒(これは許せる範囲)かね。仕舞い込んだ毛布を出す始末。なかなか気温の変化に馴染まず、この所、身体も不順。年齢的な問題ではない。温暖化の所為さ。
母をあちこちドライブに誘った折、群馬県みどり市にある「富弘美術館」を訪ねた。手足の自由を失った星野富弘氏が描く優しい水彩詩画が評判を呼んで多くの観客を集めているが、母も一度は訪ねてみたいと云うので、ドライブ計画に組み込んだ次第。日光へ抜ける国道122号線沿いにあって、今は新しい建物になったが、新築前に訪問。足腰の弱った老母を案内して、美術館に入ると、直ぐに案内係がエレベーターを利用するよう促してくれた。親切な提案だったが、昔気質はにこやかな顔で遠慮を申し出て、階段を上った。身障者への配慮が行き届いているが、気丈な老母にはかえって余計な待遇だったみたい。やっとの思いで階段を上り少し疲れた様子だったが、植物の絵やそこに添えられた温かい言葉をブツブツと読みながら、熱心に見て回った。大したものだね。以前に1、2度訪ねているみのる君には目新しい発見もなく、少々退屈だった。今から6年前の、ちょうど今時分のこと。
建物が新しくなってからは一度も行っていない。日光方面に行くような機会があれば、もう一度訪ねてみようか。などと思うが、大型観光バスがひっきりなしにやって来るから、きっと、落ち着いて見られないだろうね。
広島、岡山を支配下に治めた神武軍は、次に大阪湾に向かう。以下、岩波文庫版より抜粋。一部表記簡略。
浪速の渡りを経て、青雲の白肩津に泊(は)てたまひき。この時、登美(大和地方の登美)の長髄彦(ながすねびこ)、軍を興して待ち迎えて戦いき。ここに御船に入れたる楯を取りており立ちたまひき。かれ、そこを名付けて楯津と謂ひき。今は日下の蓼津(たでつ。場所は不詳。大阪周辺か)と云う。ここに登美彦と戦いたまひし時、五瀬命、御手に登美彦が痛矢串(いたやぐし)を負いたまひき。これ、ここにのりたまひしく、「吾は日神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず。ゆえに、賎しき奴が痛手を負いぬ。今より行き廻りて、背に日を負いて撃たむ」と契りたまひて、南の方より廻りいでましし時、血沼(ちぬの)海に到りて、その御手の血を洗いたまひき。血沼海と謂うなり。そこより廻りいでまして、紀ノ国の水門(みなと)に到りてのりたまひしく、「賎しき奴が手に負いてや死なむ」と雄叫びして崩(かむあが)りましき。その水門(みなと)を名付けて男の水門と謂う。御墓は紀国の亀山にあり。
神武軍がナガスネ軍の抵抗に遭って往生している様子が生き生きと描写されている。日の神が東に向いて戦った為、五瀬が負傷。逆光では不利とばかり、南に下って、和歌山県の御坊市辺りに向かう。その途中、負傷した五瀬が死亡。その際、「敵に撃たれて命を落とすとは、何とも悔しい」と志半ばの五瀬の無念を見事に表現している。古事記中、このくだりが最も躍動的。「男の港」なんて名付けた辺り、ちょっと鼻白む。
この後、神武軍は熊野から上陸し、八咫烏の導きで吉野へ向かう。そして、快進撃を続ける中で、「神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻ろふ(はいもとほろう) 細縲(しただみ)の い這い廻り 撃ちてし止まん」と神武軍の勢いを歌に詠んだ一節が出てくる。敵を倒すまでとことん攻めるぞ、と勇ましい。やがて、「撃ちてし止まん」が、後世、日本軍の進撃ラッパの如くに膾炙する。
古事記の中巻、神武天皇東征の部分を抜粋。岩波文庫版。一部表記簡略。
神武天皇、その同母兄五瀬命とニ柱、高千穂宮に坐して議りて、「何処に坐さば、平らけく天の下の政(まつりごと)を聞こしめさむ。なほ東に行かむ」とのりたまひて、すなわち日向より発たして筑紫にいでましき。かれ、豊国の宇佐に到りましし時、その国人、名は宇佐津彦、宇佐津姫の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、大御饗(おおみあえ)たてまつりき。其地より移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上りいでまして、安芸のたけりの宮に七年坐しき。またその国より移り上りいでまして、吉備の高島宮に八年座しき。
高千穂にいた神武、五瀬の兄弟が天下統一を図って、東に向かう。まず、宇佐に行き、歓待を受けた。そこから福岡県遠賀郡芦屋に移って、一年を過ごす。次に広島県に移って七年を過ごし、次に岡山県に移って、八年を過ごした。ざっとこんな内容。
東征の過程で各地に長く滞在している意味について、以前は軍備を整えていると解していた。神武軍が東征に当たっては、軍隊移動に食料確保が重要であろうから、各地で戦力確保の為に食料等の調達が必要だった。そう解釈すれば、福岡や広島、岡山での長期滞在も肯ける。古事記の文章を浅学が解釈した結果だから、専門的な裏付けは無い。
最近、九州各地をドライブして帰宅後、改めてこの件を読み返したが、浅学の半可通で、違った解釈に至った。
神武軍は、まず宇佐を占拠し、次に福岡の遠賀川流域を確保、足場を固めた上で、関門海峡から瀬戸内海沿いに広島へ進撃。そこで幾多の困難を克服して広島、岡山周辺を確保(合せて15年の歳月?)したのではないか。広島、岡山辺りを手中に収める為に、膨大な軍事費(要するに食料と武器調達と兵士補充等)を投入したに違いない。では、神武軍の東征を妨げ、悩ませた原因、即ち敵対勢力とは何か。それは、多分、出雲の大国主だったのだろう。当時、日本列島各地には強大な勢力を誇示する豪族が割拠していたはずだ。吉野ヶ里もしかり。神武軍は、こうした地方豪族を次々に支配下に治めていったのだろう、と思う。こう解釈すると、古事記の神武天皇東征のくだりがすんなり理解出来る。大国主神話が上巻に散りばめられているのも、東征の成果を物語る為と理解出来る。現地を自ら確認して来たから、以前より説得力の増した仮説となったかな。なんて、悦に入っている。
NHKBSで放映されていた東京神田神保町の古本街を紹介した番組を拝見。世界でも類を見ない古本の街として、160もの古書店が軒を連ねている。昔、さんざん歩いて回ったものだから、懐かしさもあった。画面から慣れ親しんだ古本の匂いが漂ってくる。
父が読書好きで、膨大な書物が残されてしまった。半分は引き取ったが、みのる君の書斎も本が溢れているから、父の分の置き場所までは十分に確保出来ない。残り半分はやむなく処分。処分に当たっては、地元の古書店の主人に依頼したが、近頃は全集モノがまるで価値が無いと云う。昔とは大違い。売れそうな本だけを選別して引き取って行った。神田神保町の有名古書店にも引取りを依頼したが、同様に価値が無いから引き取れないと云われた。NHKの番組に出て来た古書店の主は、お客の家にまで行って、丁寧にチェックし、買い取っている。さすがNHKの威力かね、価値云々なんか度外視して書棚を空にしていく。一般人待遇とは全く違うぜ。書物への愛着が優先して、商売は二の次。テレビじゃ、それもやむを得ないか。
ご存知、福沢諭吉の「学問のすゝめ」は明治5年から9年に書かれた書物だが、ベストセラーと云える程、売れに売れたらしいね(どうでも好い事だけれど…)。明治13年までに70万部を売ったと云う。しかもニセモノまでも10数万部が売れ、諭吉自身が「古来稀有の発見」と云った由。お陰で慶応2年に刊行した「西洋事情」も20数万部が売れたらしい。相乗効果かな。
明治維新直後の時代にあって、70万部の販売は驚異的だろうね。版元は儲かってしようがない。諭吉も莫大な利益を得て、慶応義塾の経営も賄えたと云う。第一、この時代に本が売れると云う風土があった事が驚き。70万人の読者も立派なものだ。テレビもラジオもインターネットもない時代でさえ情報は共有された風土。明治時代の向学心に拍手だね。中村光夫の「明治文学史」に発行部数が書いてある。
唐津焼と云えば中里太郎右衛門らしい。先週、茶席があって、カミサンが一緒に参加した友人に九州ドライブの武勇伝を話した所、めでたい5の倍数の結婚記念にどうぞ、と唐津焼のぐい呑みをプレゼントしてくれた。思わぬ配慮で唐津の徳利とぐい呑みが揃った。しかもカミサンが閉店間際に飛び込んで買った中里太郎右衛門陶房の作。宇佐神宮を見物中に、この友人からカミサンに電話があって、今、宇佐にいるのよ、なんて話したものだから、茶席に向かう車の中では土産話で盛り上がったみたい。それに、その茶事でも唐津焼のフタ置きが使われており、しかも中里家のマーク入り。茶席の主が焼物に疎かったらしく、カミサンが図々しくも中里家についてウンチクを語ったみたい。でしゃばりめ。茶事が終わって、友人の自宅へ寄った際に頂いた由。帰宅したカミサンが嬉しそうに話してくれた。中里太郎右衛門の徳利とぐい呑み。これは家宝になるかも知れない。
娘に勧められて、ケータイを買い替えてしまった。今度のケータイはワンセグが見られる。便利になったものだ。カミサンも同じようにワンセグの見られるケータイに変更。今までのらくらくホンでも使いこなせなかったのに、最新型で大丈夫かい。心配になって聞けば、みのる君にTVを独占されていると、好きな番組も見られない。だから、ワンセグにしたの。カミサンは人の所為にしている。分からない所は教えて頂戴。呑気なものだ。小さな画面じゃ面白くもないと思うけれどね。付加機能としてGPSもキャッチ出来るから、迷子になっても大丈夫だぜ。少なくとも現在地は分かる。大して役立たないと思うけれど、心強い機能じゃないか。
九州ドライブから戻ってみると、我が家の庭は留守の間にすっかり緑濃くなっていた。植物は律儀に新緑一色。桜の枝ぶりも見違えるようだった。
再び日常生活に戻った。カミサンは相変わらず茶事が目白押し。毎週のようにあちこちの茶事に出掛け、休む間もない。みのる君も仕事に追われる毎日。
そんな中で、先週末、寸暇を見付けたカミサンと長野の善光寺へ行って来た。知り合いが善光寺大門で春先から写真展を開催しているものだから、一応、顔を出す。オリンピック聖火で一悶着あったから、その時期を外して出向いた次第。写真展はあっさりと見てから、善光寺を参拝。観光客であふれていた。門前町は結構な賑わいだった。折りしも山門修復が終わって山門の特別拝観中、大勢の拝観希望者が順番待ちの列を作っていた。急峻な階段を登るのも億劫だし、並ぶのは更に面倒なので、順番待ちを横目で見ながら素通り。境内には全く人見知りしない鳩たちが悠然と土を突いている。長閑なものだ。
近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ後は、長野から北上、飯山市を抜け、十日町から六日町に出る。2,3度立ち寄ったことがある蕎麦屋で「へぎそば」を食してから、関越自動車道を利用して帰宅。あっと云う間に400㌔のドライブ敢行。3000㌔以上を走破しているから、この程度のドライブは楽勝ものさ。
本日午後8時23分頃から29分頃にかけて、ISS国際宇宙ステーションが日本列島を縦断する。四国室戸岬上空辺りから大阪上空、飛騨高山辺りをかすめて仙台付近から太平洋に抜ける。この間、約3分。本州全体で夜空を彩るショーが見られそう。最近は夜明け前が多かったが、又、夜も見られるようになった。一見の価値がある。興味のある方は是非ご覧を。世界観が変わるかも知れない。23日午後7時32分頃もほぼ同様のコースを通る。宇宙航空研究開発機構(JAXA)のホームページにこの情報が提供されている。
方丈記に1185年(元暦2年)7月9日の大地震の記事がある。岩波版新日本古典文学大系ではカタカナ表記となっているが、平仮名表記、一部漢字表記に変えて以下の通りご紹介。
おびただしく大地震振ること侍りき。そのさま世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海はかたぶきて陸地を浸せり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂い、道行く馬は足の立ち処を惑わす。都のほとりには、所々堂舎・塔廟一つとして全からず。或いは崩れ、或いは倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き家の破るる音、雷に異ならず。家の内に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地破れ裂く。翼無ければ空をも飛ぶべからず。龍ならばや雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりければ、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かく夥しく振る事は、暫くして止みにしかども、その余波、暫く絶えず。世の常驚く程の地震、ニ三十度振らぬ日は無し。十日二十日過ぎにしかば、ようよう間遠になりて、或いは四五度、ニ三度、若しは一日まぜ、ニ三日に一度など、大方その余波三月ばかりや侍りけむ。
被害状況や余震の状況も詳しく書かれている。理科年表をみると、この時の地震の規模はおよそマグニチュード7.4。阪神・淡路大震災のM7.3とほぼ同規模か。中国四川省の大地震がM7.8(後にM8.0)。自然の脅威に肝を潰す。速やかな復旧を俟つしかないが、自然環境を基盤にした人智の何と脆弱な事か。
鴨長明は翼や龍を夢想したが、人智はその翼を手に入れ、空を飛ぶことも可能になった。しかし、地面が割れては降りる場所が無い。燃料が無ければ飛ぶ事も出来ない。電気が途絶えればインターネットもお手上げ。足元に陥穽有り、だ。
津和野を出発してからは津和野街道を利用して南下、六日市インターから中国道へ。あとはひたすら東進。途中、カミサンがNHKの「篤姫」を見たいと駄々をこねるものだから、広島県の本郷パーキングで暫時休憩。旅行中にもかかわらず連続ドラマに固執するカミサンに呆れるものの、災厄を恐れて休憩。暫時、ナビ付属のTVで「篤姫」を見る。その間、みのる君は外で一服、仮眠。
時々道路情報で渋滞状況を確認していたが、神戸の先、西宮辺りの渋滞がまるで解消していない。10㌔以上の混雑。夜中だと云うのに、ひどいモノさ。疲れも出ているので、岡山県に入って、勝央サービスエリアでしばらく休憩。100㌔先に分岐点があって、その向こうは兵庫、大阪、京都の名立たる渋滞路線が控えている。関東地方に戻るには、この渋滞にじっと耐えて名神から東名に向かうか、ないし中央道に進むか、或いは少し遠回りになるけれど、米原ジャンクションから北陸道へ入るか、いくつかの選択肢がある。
一昨年の出雲・松江のドライブでは神戸周辺の混雑を避け、舞鶴自動車道を利用して帰った。昨年もこの路線を使って、丹波篠山を走った。利用経験から云えば、この道が一番無難。深夜に渋滞するような所はない。ただ、舞鶴道終点の小浜西からしばらく一般道を走って敦賀インターに向かうので、少々まだるっこしい。
勝央SAには、みのる君と同じように渋滞解消を待ち望んで待機している車であふれている。さて、どうしよう。思案数秒。小一時間の仮眠で頭も冴えた所で、舞鶴方面に決めた。遠回りでも快走に限る。そして、100㌔先の分岐点から小浜西へ向かった。
敦賀インターから北陸道へ。途中、何度か小休止しながら、実に快適に飛ばしていると、金沢を過ぎた辺りで、事故情報、砺波インターと小杉インター間が閉鎖と云う情報掲示板が目に止まる。おいおい、せっかく気持ちよく走って来たのに、こんな所で足止めかい。復旧見込みは不明。事故は発生直後らしい。開通を待っていると、渋滞も考えられるし、待機はせっかちには不向き。ひたすら前進あるのみ。小矢部で一般道路に出る。ETCの深夜割引はここで終わり。20分程、朝方の小矢部、砺波の市街を走り抜け、小杉インターから再び北陸道へ。こう云う時はナビが役立つ。
帰宅は昼時。前夕、島根県津和野を出発して約19時間。何度か休憩し、仮眠しながらも、よくぞ走った。当初計画走行距離とほとんど差異が無い。たった43㌔の違い。3100㌔を超える長大ドライブで、想定距離が43㌔の違い。さすがだね、綿密な計画を立てたみのる君の勝利。
一晩中走り続けると、1000㌔先に到達出来る。訳無いじゃん。これが、今回のドライブで実感出来た感想。何処でも行くぜ、任せておけ。みのる君の根性が少し曲がってしまったか知れない。それと、大分経って疲れが出てくると云うのは、年齢的な問題かな。
ドライブ旅行最後の目的地、津和野に着く前、道の駅で食事。カツ丼を頼んだら、関東地方と違って、汁が目一杯入ったカツ丼だった。関東とまるで違う。何、これ。一瞬、目がテンさ。この店だけの特徴だったのかな。カツなのに、面食らってしまったい。
午後3時少し前、津和野に到着。まず、森鴎外の旧宅を訪問。さっと一見してお仕舞い。それから、近くの喫茶店でコーヒーを飲んで休憩。さすがに疲労が溜まっている。マスターに中国道に抜ける道の道路状況を確認してから、今度は西周(にし・あまね)の旧宅も拝見。カミサンは西周を知らなかったと云う。熱心に案内板を見ていた。
森鴎外宅から西周宅へ向かう途中、津和野川の河川敷に一羽のサギが悠々と餌を求めて歩いていた。今回はカモシカやウグイスやサギの姿まで、間近に見られて良かったわ。カミサンは妙な感想を述べる。西周宅を拝見中に、近くで汽笛の音が鳴り響いた。きょろきょろ見回すと、はるか彼方に煙を吐いた蒸気機関車が見えた。久し振りの懐かしい光景。
カミサンは独身時代に萩と津和野を一人旅している。汽車とバスを乗り継いで動き回ったそうだ。町を一巡して、人影も少なくなって来た時刻、津和野駅近くの食堂に入った途端、カミサンが小声でみのる君に囁いた。この店、入った覚えがある。座った場所もここ。そうよ、この格子窓も覚えている。この椅子に腰掛けて、食事をしたのよ。何を食べたのだろう、すっかり忘れてしまったけれど、間違いない、このお店のこの席に座ったわよ。いきなり何十年前かの記憶が蘇ったみたい。まだ、お店が残っていたのね。カミサンは感無量の面持ち。珍しい事もあるね。
津和野見物で今回のドライブ計画は全て消化。残るは無事ご帰還を祈るのみ。あえて津和野で時間を潰して出発を遅らせた理由はただ一つ。真夜中に大阪、京都を通過したい。ゴールデンウィークも終盤、連日深夜まで首都圏や近畿、関西地区の高速道路は大渋滞している。これを避けるには、真夜中過ぎに渋滞箇所を通過するしか無い。今から出発すれば、4、5百㌔先の大阪通過は午前1時過ぎになるだろう、きっと渋滞は解消しているに違いない。みのる君の無茶苦茶なドライブ計画が再び始動。陽が西に沈む頃、津和野を後にした。
今回の大冒険無謀ドライブは、今年がみのる君とカミサンが一緒になってン十年が経過、5で割り切れるめでたい(かどうか分からないけれど)記念の年に当たっている事がそもそもの発端。よく続いたわね。子供等が気を利かせて旅行券なんかプレゼントしてくれるかな。それは多分無理ね、自分のことで精一杯。それじゃ、新婚旅行と同じようにドライブでもしようか。てな会話から話が発展。5の10倍までは生きられないと思うけれど、ここまで何とか無事に来られたのは、多分、お互い我慢強いって事なんだろうな。いや、我慢強いのはみのる君さ。カミサンはいつだって我を通している。
【蛇足】
今回が祝700回。万歳、万歳。700回も記事を書き続ける偉業に一人で乾杯です。アクセスカウンターも2万を超えました。各位のご来場に感謝、感激です。あえて云えば、沢山の心優しいコメントを頂ければ更に感動するとか思います。
秋吉台の次は、いよいよ萩へ。カミサンたっての希望を叶えて、萩焼を訪ねよう。今回は「一楽ニ萩三唐津」の二つまでを見学する事になった。結構、思い切っての決行さ。九州は慌しかったけれど、萩は半日ゆっくり出来る。
萩市手前の道の駅「萩往還公園」で小休止。この日は「萩往還マラニック大会」と云うのが開催されていた。道の駅で呑気に休憩していると、次々とゼッケンを付けた年配者がやって来る。何事かと思って、疲れ切って肩で息をしている人に問えば、マラニック大会中だと云う。いくつものコースに分かれて健脚を競っている由。頑張って下さい。労をねぎらって礼を云う。世の中、いろんな人が色々な事で一生懸命頑張っているんだね。大したものだ。
午前8時、萩市の松陰神社到着。ここまでで1970㌔。みのる君の事前調査の距離とぴったり一致。見事な計画遂行力。机上の計算と実地距離が同じって、案外、驚異的だと思うね。到着時間は計画と30分の誤差だったけれど、そんなの問題外。正鵠を射る。大したものさ。
吉田松陰が講義した松下村塾を拝見。昔の建物は小さいね。江戸からはるかに離れたこんな場所から幕末の志士たちが輩出したとはね。昔の人は偉かったと思う。
その後、市内中央公園の駐車場に車を止めて、城下町を散策。高杉晋作誕生の住まいを見てから、喫茶店に入る。モカを注文。カミサンはブルーマウンテン。やっとコーヒーが飲めるぜ。煙草も吸えるし、しばらく休憩だね。みのる君たちが持っている市内観光案内図を見たマスターが、とっておきのコースを紹介しようと親切を買って出てくれた。案内図に黒のサインペンを使って、いちいちポイントを説明しながら記入してくれたものだから、道路が黒く塗られてしまい、地図が読めなくなってしまった。せっかくの親切心だから困った顔も出来ない。有難く拝聴。
教わった通りに歩き出すと、いきなり萩焼の看板が目に入る。カミサンの目の色が変わる。ちょっと寄りましょう。唐津で徳利を買ったから、萩ではぐい呑みにしましょう。唐津と萩でお酒を呑む。良いでしょう。カミサンは勝手に決め付けて、1万円もするぐい呑みを買ってしまった。ついでに1000円の萩焼。見た目には1万円と云ってもおかしくない代物かな。掘り出し物を見付けちゃったわ。更に歩くと、指月の萩城跡で大茶会開催中の案内板を発見。お茶を飲みましょう。カミサンは即座に反応しやがる。萩まで来てお茶を飲めるなんて、嬉しい。裏千家で無いのはご不満の様子だったが、贅沢は云わない、お茶が飲めれば良い。みのる君は辞退。萩まで来て堅苦しい茶事には付き合えない。暫時、二人は別行動となる。一人になったみのる君は城跡を巡ってから、往還マラニック大会のゴール地点の賑わいを眺めながら、しばし観光物産店で休憩。
再び一緒になってから、元来た道を戻りつつ、萩明倫館跡や武家屋敷、あちこちの庭にある名物の夏みかんを眺めて歩いた。カミサンが萩焼を買った店の近くまで来ると、目ざとく大茶会の案内板を発見。ここは裏千家よ。何だ、こんな所でやっていたのか。ようし、入るぞ。カミサンはみのる君を置いてさっさと茶席に向かってしまった。
萩の町を一巡して駐車場に戻ると、駐車待ちの車があふれていた。みのる君たちが車を止めた頃はほんの十数台しか止まっていなかったのに、いつの間にやら満杯状態。やはり、先んずれば人を制す。駐車場前の店で夏みかんを購入。300円で10個以上。安かったし、いい土産になった。
カミサンは萩名物のウニを食べたいと云ったが、喫茶店のマスターの「今は旬で無い」とのご宣託を頂いているから、さっさと車を出して最後の目的地へ向かった。
中国自動車道伊佐PAで宇宙ステーションを見た後は、暫時仮眠。間に合えば秋吉台でISSを見たかったけれど、なかなか思うようには事は運ばない。
5時半過ぎに目覚めてから、一路、秋吉台に向かった。30分程で秋吉台到着。すでに十数台の車が駐車場に止まっていた。朝が早いので秋芳洞は諦め、石灰岩の台地を見学。ここも、一度は訪れてみたかった場所。カルスト台地を目撃するのは初めてだったけれど、特に面白いと云った風景でも無かった。ここでISSを見られたら別の印象だったかも知れない。澄んだ夜空にISSが音も無く移動していく。きっと、感動的だったに違いない。
カルスト台地で迎えてくれたのはウグイスたち。石灰岩の片隅や低木の枝に止まってホケキョ、法華経とあちこちでさえずる。カミサンは嬉しそうにウグイスの鳴き声に誘われて歩き回る。いい運動だね。カミサンはやっとの思いで小枝に止まったウグイスをカメラに収めた。
真夜中に金立サービスエリアを出発、鳥栖ジャンクションから九州自動車道に入り、午前3時前に門司のめかりパーキングエリア到着。折りしも博多では「博多どんたく」真っ盛り。迂闊に近付くと大渋滞に巻き込まれかねない、慎重居士のみのる君は最初から博多周辺通過は深夜と決めていた。深謀遠慮は無用だったかも知れない。道路はきわめてスムーズ。めかりPAで関門橋の明かりを眺めてから九州を離れる。九州滞在40時間、780㌔を走破して呆気無く九州とお別れ。
中国自動車道王司PAで給油し、伊佐PAで小休止。ちょうど宇宙ステーション(ISS)が見える時分。カミサンと車を降りて、空を眺める。午前3時56分。一際明るい星のような宇宙ステーションが北に向かって動いているのを発見。中国地方でISSを拝めるなんて想像もしていなかった。見られて良かったね。カミサンがねぎらってくれる。目の錯覚かしら、ISSが少し揺らいで見えた。
みのる君のカミサンは一応お茶の先生でもあり、お弟子さんに裏千家の作法教えている。準教授の地位にあって教授も近い内と云う立場、偉いかどうか分からないけれど、お茶に関連して焼物に滅法詳しい。独身時代は焼物を求めて、あちこち動き回った経験をお持ちだそうで、夜行電車に揺られて遠征し、時にはその身なりで男と間違われてしまったこともあると云う。夜行列車で移動の際、真夜中、4人掛けのボックス席を一人で占領して眠っていると、検札にやって来た愛想の無い車掌に起こされてしまい、相手が女性と知った車掌が慌ててしまって平身低頭だったと云う武勇伝を誇っている。そのカミサンが唐津には行った事が無い、この際、是非唐津に行きたい、「一楽ニ萩三唐津」と云われる焼物の世界、是が非でも唐津にこだわるものだから、万難を排して唐津へ行く事が義務付けられてしまった。近くに伊万里もあるが、どうすると聞けば、出来れば寄ってみたいが、どっちでも良い、とにかく唐津は外すなと厳命。吉野ヶ里遺跡を見学後は、いよいよカミサン待望の焼物詣でとなった。
午後5時。観光客相手の店は大方店仕舞いの時間帯に何とか唐津に到着。唐津と云えば中里太郎右衛門かどうか知らないが、その陶房へ駆けつける。やっと辿り着いた時は、すでに店を閉じる準備中だった。カミサンは臆することもなく、遅くにスミマセンと無遠慮に店へ入り込む。店も客を冷たくする訳にもいかず、店仕舞いを中断して、しばしカミサンの物色に付き合ってくれた。天皇皇后両陛下も見学されたと云う陶房は落ち着いた佇まい。陳列してある唐津の焼物の値札を見れば、庶民には無縁の価格、ゼロが二つも三つも多い代物ばかり。おいおい、まさか買うつもりじゃ無いだろうね、みのる君の年収をはるかに上回る値段だぜ、手に取っても決して落っことすなよ、値札に驚いたみのる君はカミサンの耳元で囁く。カミサンは澄ました顔で平然と見て回る。女は度胸だね。
ようやく手頃な値段の徳利を見付けたらしい。朝鮮唐津の徳利。価格は3万円超。ゴメン、お金が無いの、貸してくれない。カミサンはみのる君の財布を当てにしていたみたい。酒を呑むのに、そんな高価な入れ物は不要と云うみのる君の感性は鼻であしらわれてしまう。唐津まで来て、しかもやっと見付けた朝鮮唐津よ、しかも安い!カミサンは自分の成果を誇らしげに吹聴して、是非、買いたいと駄々をこねやがる。朝鮮唐津で一献、ステキじゃない。店内で議論もみっともないから、仕方なく勘定を持つ羽目になった。後で返せよ。大丈夫よ。カミサンは安請合いの返答で誤魔化しやがる。
その後、駅前の唐津焼展示即売会を見る。ここでも茶碗を購入。これは皮鯨と云う茶碗よ。口辺が黒くなっているでしょう、唐津焼はこれも有名なのよ。カミサンは気に入った皮鯨を手に入れて嬉しそうにウンチクを語る。
唐津の東に日本三大松原の一つ、虹の松原と云うクロマツ林が唐津湾沿いに拡がっている。日本の白砂青松100選にも選ばれている由。買い物の後は、ここをしばらくドライブ。松林のトンネルの中を走るなんて、なかなか乙なものだった。日本の道百選にも選ばれているそうだ。
やっと希望の焼物を手に入れたカミサンはご機嫌そのもの。何処かで食事でもしましょう。かれこれ夜の7時に近い。辺りは暗くなっている。最初から今晩は車中泊の予定だから、カミサンは慌てる素振りも無い。唐津市内を適当に走っていると、手打ちの蕎麦屋の看板が目に入る。蕎麦でも喰おうか。思い付きを口にすると、カミサンも異存無し。とりあえず腹を満たせれば良し、美味しそうな店を探すのも面倒だし、その蕎麦屋で夕食となった。
夕食後、慌しい唐津探訪を終えて、再び、高速道路へ。長崎自動車道の金立サービスエリアで暫時仮眠。ここまでの走行距離は1800㌔を超えている。朝方高千穂を出発して12時間以上。一日で400㌔超走破。忙しい一日だった。五月の連休中にもかかわらず、渋滞に遭わず走れたことは、やはり最大の成果だっただろうね。
古代史にいささか興味を持つみのる君が、是非、見学したかった吉野ヶ里遺跡。九州ドライブを企画した時は、迂闊にもこの遺跡の事を忘れていた。道路地図を買ってきて、宇佐神宮や高千穂、熊本巡りのコースを検討中は気付かなかった。九州と吉野ヶ里が結び付かなかった所は大雑把な性格のみのる君らしい。何度か目かのコースの確認の時、あれれ、こんな所に吉野ヶ里があるじゃん、高速道路のすぐ近くじゃん、こりゃ、行かねばなるまい、と、ようやく遺跡の存在に気が付いた。
九州と云えば唐津。カミサンは唐津行きを断固主張していたので、熊本から唐津までのコースを地図上で調べていたが、まさかその途中にいい按配に歴史公園が鎮座しているなんて知らなかった。関東者には、あまりに九州は遠い。土地勘が無くて当然さ。吉野ヶ里遺跡の見学を予定に組み込んだ為、唐津到着が遅れてしまう。カミサンはそれでも良し、と快く了解してくれたので、太宰府天満宮の道真公お参りは取りやめて、漱石旧居見学のあとは吉野ヶ里と決めた。みのる君最後の目的地。
高千穂で目覚め、阿蘇を経由して熊本に寄り、吉野ヶ里を見学して唐津までの一日コースは、少々無謀と云うか、折角の九州なのに勿体ないと云う気がしないでも無かった。
午後3時、吉野ヶ里歴史公園の駐車場到着。ここもすんなり車が止められた。反対車線側には駐車場に入る車が数珠つなぎだったが、関東ナンバーは信号の色が変わる瞬間を狙って強引に右折して割り込む。高等技さ。
この日は入場料がタダだった。特別な日だったかしら。駐車料金も取られず、温かく迎えてくれた。有難い事です。時間的余裕も無かったので、オープンしたばかりの北墳丘墓(下の写真)までは見られなかったが、「南のムラ」を一巡、弥生時代の環濠集落の復元をゆっくりと見て回った。
甕棺や人骨も見たし、暮らしの道具類も拝見。しばし古代に思いを馳せる。魏志倭人伝に出てくる「末盧」が近くの松浦市かと思うと何となく倭人伝が身近に感じられる。
平野部に広大な「ムラ」を構えた当時の状況とはどんなものだったのだろう。濠を掘って外敵の侵入を抑え、物見やぐらで四囲を監視する体制、頭部の無い人骨、埋葬に使った多くの甕棺、きっと凄まじい戦闘がしばしば繰り広げられていたのだろう。食べ物をめぐる争い。権力闘争。いつの時代も同じ。生きる為には犠牲が伴う。それにしても、頭を切られると云うシチュエーションって何だろうか。戦いで不幸な死に方をしたのだろうか。他人の食物を奪って処刑されたか。いずれにせよ、埋葬された経緯があるから名誉の戦死か、現代人が掘り出した場所は罪人の墓場か。想像が膨らむ。
書物だけでは分からなかった現地の景色をこの目で見た。邪馬台国も「ムラ」の一つとして勢力を誇っていた時代。吉野ヶ里は平野部、高千穂はとんでもない山の中にあった。平野部に暮らすムラ人と山間部のムラ人では、恐らく思想や生活面に大きな隔たりがあっただろうね。高千穂の森の大木は住居建設に重宝する。吉野ヶ里の住まいや監視塔に使った大木は一体何処から運んだのだろうか。建築資材確保の利便性も「ムラ」の維持に欠かせない。吉野ヶ里がやがて歴史上から消えていく背景には、建築資材調達が困難だった面も考慮出来る。外敵も入りやすい地形と資材調達の不便さ。加えて稲作に適した地面も災いして頭部を失うような争いが頻発していたに違いない。次々と権力者が入れ替わりながら、やがては大和朝廷に制圧されてしまう。吉野ヶ里はこうした歴史を証言する遺跡かも知れない。
初めての熊本市内を城を目安に走り回って、うまい具合に漱石旧居に近い城の駐車場に車を止められた。昼時でどこの駐車場も駐車待ちの車が列を成していたけれど、タイミングが良かったかな、誘導員の指示に従って、並ぶこともせず、すんなり駐車場に入れた。運がいい。
熊本城も見学したかったけれど、時間が足りない。城を横目で見ながら(時間があれば是非寄りたかった。今回は城壁の前で記念撮影して終わり)、夏目漱石が熊本時代に住まいしていた5番目の住居を探す。市内の詳しい地図なんか持っていなかったけれど、いい加減な勘が的中、カミサンが通りがかりの人に道を尋ねれば、すぐ近くだった。
不勉強のイタチゴッコで、熊本は多くの文学者に縁があるとは知らなかった。徳富蘆花、蘇峰兄弟は熊本出身の由、林芙美子は少女時代を過ごし、漱石は青年期を生き、小泉八雲も森鴎外も頼山陽も、猿丸太夫や山頭火や中村汀女も…。そうそうたる御仁が名前を連ねているではないか。
熊本と云えば、みのる君はお城が立派と漱石しか思い浮かばなかった。事前の知識がたっぷりだったら、多分、もう少し腰をすえていたに違いない。道路地図だけを頼りに漱石旧居を目指したけれど、お城の南側に小泉八雲旧居があると承知していながら、時間的に見学は難しいだろうと初めから漱石に絞っていた。他の面々の名前を耳にしていたら、きっと、熊本一泊も選択肢に入っていただろうと思うが、後の祭りさ。何時やって来るか分からない「次の機会」を楽しみにするしかない。せっかちの後悔はいつも大きい。
結婚し、長女を儲けた漱石の住まいは客がまばらだった。もはや文学は遺物と化したね。趨勢とは云え、ちょっと淋しい感じもする。すぐ近くの熊本城は駐車も出来ない程の混雑ぶりなのに、近代日本文学の功労者には冷淡な扱い。人間とは何ぞや。文学の本質を考えれば、冷淡も遺物も文学的と云えないことも無い。
「安々と海鼠(なまこ)のごとき子を産めり」と呑気な亭主の感慨を述べた漱石の住居庭に、長女筆子が産湯を使った井戸が残っている。この前で記念撮影。建物内を一巡、広くて結構な身分だったなと感心。となりに学校があって、生徒たちの歓声が聞こえてくる。成程、苦沙弥先生が往生したのも分かる。小説で鬱憤を晴らしたのだろうなと思う。
カミサンが「漱石山房」の名前を冠した原稿用紙を買って、みのる君にプレゼントしてくれた。気が利くね。土産物には全く無関心のみのる君だから、折角の漱石旧居でも土産物の物色なんかしなかったが、カミサンからのプレゼントは良い記念になった。
熊本インター方面は渋滞が予想されるから、お城の駐車場を出て、すぐに左折。まっすぐ北に伸びる交通量が断然少ない道を進んで植木インターから高速道路へ。いざ、北上。
阿蘇山も見たい。みのる君が第3の目的地。カミサンは昔、修学旅行で訪ねたと云う。豪気なものだね。
高千穂から高森町を抜ける。午前の早い時間帯だった所為か交通量は少なく、快適に山岳地帯を走る。待望の草千里ヶ浜に車を向けて小一時間、阿蘇の中腹に辿り着いた。雄大な外輪山。周囲壮観。天晴晴天。気分清々。牛が呑気に草を食べている。遊覧ヘリが客を乗せて爆音を立てている。彼方に乗馬を楽しむハイカラさんたちの群れ。中岳の噴煙も見える。すっきりとした烏帽子岳や幾何学的な米塚。来た甲斐があったね。カミサンはカメラで辺りをパチパチ。後で見たら、ほとんどピンボケ。カミサンの興奮と慌て振りが窺える。
池の窪ふれあい交流館と云う店があって、ここで休息。自宅を出発以来、初めてのコーヒー。この際、味なんて二の次さ。阿蘇でコーヒーを飲む。これで良し。さすがに観光客が多い。下から切れ目無く車がやって来る。みのる君たちは反対方向に向かうから、気楽に一服出来た。
阿蘇山に向かう車の列は熊本市内近くまで続いていた。逆方向で良かった。早目の行動も大事。先んずれば人を制す。漱石が歩いたかも知れない道を快適に走った。
前々から高千穂は訪ねたい場所だった。神話の世界を自分の目で確かめたい。高千穂峡も見たい。今回の旅行の最大の目的地が高千穂。実際に訪ねて見れば、別段、他所の観光地と大差はなかった。ちょっとガッカリかな。
朝6時過ぎにホテルをチェックアウト。まずは念願の天岩戸神社へ向かう。蛇足だけれど、九州の信号って、色が変わるのが遅いね。ホテルの駐車場を出た所で赤信号に引っかかった。朝も早い時間だから、すぐに青になるだろうと思っていたけれど、さにあらず。車なんかほとんど走っていないのに、いい加減長い時間、カップラーメンが出来上がってしまう程の時間、ウルトラマンがそれを食べられないと地団太を踏み出す時間、赤信号のままだった。無視しようかと本気で思ったくらい。他でも悠長な信号に幾つも出合った。せっかちな人間には辛い神話の世界観。
天岩戸神社では西本宮が例祭当日で、屋台が準備に追われていた。まず、天照御大神を祭る東本宮を参拝。御柱になりそうな樹齢何百年とおぼしき見事な大木が無数天を衝いている。これぞ高千穂の財産だね。
次に西本宮を見てから、暫時岩戸川に沿って歩くと、やがて天安河原に着く。アマテラスが岩戸に身を隠した際に八百万の神々が対策を協議した場所。辿り着いた時、誂えたように朝日が岩戸川を照らしており、何となく神々しい。
東本宮にはウズメ(天鈿女命)の像も飾ってあり、近付くと神楽を舞うようになっている。神々が岩戸に籠もったアマテラスを連れ出す算段をして、ウズメが一役買った次第だが、胸をあらわにして踊るウズメを見て神々が笑うと云う古事記の一節を読むと、神楽と云うより、もう少し俗っぽい踊りのような気がしてならない。
ちなみに岩波文庫版古事記の一節は、「(ウズメは)神懸りして、胸乳をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天の原動(よよ)みて、八百萬の神共に咲(わら)ひき」とある。どう解釈しても神楽のイメージじゃない。「乳」や「陰」が出てくると、場末の何とか小屋を連想してしまう。もっとも、古事記は最初からおおらかに男女の営みを語っている(私には余分な部分がある、貴女には足りない部分がある、だから合せましょうと云うアッケラカンとしたイントロダクション等々)から、現代風に解釈してはいけないのかも知れない。
その後、高千穂峡を見た。午前8時にもかかわらず、すでに大勢の観光客で賑わっていたが、幸運にも何とか駐車出来た。高千穂峡の実際は写真で見る雰囲気と違って、意外に小振り。岩戸川でも同じような峡谷美が見られた。写真程でないね。カミサンも少し落胆した様子だった。
国見ヶ丘を回ってみようかと思ったが、時間に余裕がなくて断念。諦めが早いと後で後悔するけれど、この際やむを得ない。道の駅で土産物を物色。折角宮崎まで来たから、県知事の似顔絵が入った土産物が最適かなと思ったが、流行に乗るのも癪だから、高千穂の名前を冠した土産に落ち着いた。職場の連中の呆れる顔が想像出来る。何と無茶なドライブ。それとも尊敬の眼差しかな。
カミサンは神楽の面をかたちどった落雁を購入。さすがに目ざとい。茶菓子には目の色が変わる。
臼杵から高千穂に抜ける途中に「ととろのバス停」と云う実際に運用されているバス停がある。ここも今回の旅の目的地の一つ。大分県佐伯市宇目南田原の轟(ととろ)地区。コース検討中に見付けた観光スポット。
最初は乗り気でなかったカミサンも、バス停に到着するや喜色満面。あら、ステキじゃない。子供達への土産話になるね。近くにトトロの森なんてのがあって、トトロ人形が沢山置いてあったり、猫バスもある。みのる君らが到着すると、先客の若いカップルが写真を撮っていた。猫バスの窓からカミサンが顔を出して手を振ってみせたが、さすがに公開は憚られる。トトロも目を回す。
すでに夕方の5時を回っている。バス停の次は、いよいよ高千穂を目指す。日之影宇目線と云う狭く曲がりくねった道をひた走る。対向車とすれ違えない道が延々と続く。途中、何度かすれ違いに往生。地元民しか通らないような道を関東ナンバーが横柄な走り方をするから、きっとヒンシュクを買っただろうな。
行けども行けども、隘路が続く。無事に辿り着けるか少々不安になる。出発一週間前に高千穂のホテルを予約(ゴーデンウィーク中の観光地のホテルを予約出来た事もドライブ決行の一因)しておいたので、念のために「遅れるかも知れない」と一報を入れ、万一に備えた。険しい山中で迷子になったり、がけ下に転落したら一大事。ホテルのキャンセル料を取られるのも悔しい。一報しておけば、全て安心。
山中で夕陽を浴びた重なり合う九州の山々を一瞥。一幅の水墨画を見るような山々の連なり。神話の古里と云った風情にも見える。勿論、思い過ごしさ。
いきなり道路を横切る小さいカモシカに出会った。カミサンはカモシカを見て大はしゃぎだった。高千穂近辺は未だ野生が闊歩しているね。
午後7時過ぎ、何とか無事にホテル到着。素泊まり二人で8千円のビジネスホテル。メーターは1370㌔を超えている(計画と7㌔の差異。わずか0.5%の誤差。この辺はみのる君の綿密さの表れ。ところが、肝心の見学場所の下調べはほとんど無し。だから、いつも後悔してしまう。これも性分だね)。ここまで全く渋滞は無し。神々が味方したかと云う見方もあるかな。
夕食時のビールが美味かった。そして40時間振りの睡眠。横になった途端、朝を迎えてしまった。
講談社の「週刊日本の仏像」を購読している。先月発行のNo.44が「臼杵磨崖仏と国東半島」を取り上げており、迂闊にも臼杵に国宝級があるとは知らず、カミサンに話すと、有名よ、知らなかったのなんて冷ややかな反応、加えて、ちょうど良いタイミングじゃない、宇佐神宮の後は臼杵に回って見学しましょうよ、なんて水を向ける。それまで九州ドライブを企画しながらも、余りの遠さに躊躇していたけれど、そうだね、ついでに行ってみるか。講談社に触発され、カミサンの誘いに応じて、とうとう九州ドライブを決意。その代わり、国東半島一周を断念し、カミサンが懇請していた湯布院一泊も無し。国東半島を回って湯布院に泊まってしまえば、その後の計画が成り立たない。先週のNHK「家族で乾杯」でも臼杵が登場。見れば、道路を走る車が少ないじゃん。何となくホッとする。渋滞には縁が無さそう…。これが九州行き最後の引金。
ホキ石仏第二群、第一群、山王石仏、古園石仏をゆっくりと見て回った。平安時代後期から鎌倉時代にかけて刻まれ続けられた由。阿蘇の噴火によって出来た凝灰岩が彫り出しに適したようで、大分県に集中する磨崖仏造営の一因の由。古園石仏の修復された大日如来も拝見。確かに、磨崖仏は一見の価値がある。
こうした文化を後世に残すことも現代人の役割だろうな。国宝や名所旧跡に落書きする不届き者が多い由。後世の人々はモラル無き時代として現代を位置付けているかも知れない。
午後3時過ぎの到着だった所為かな、やはり、観光客は少なかった。階段脇に「ヘビに注意」の看板があって、たじろいでしまった。
五月の連休を利用したドライブ旅行は、半ば定番のようになって久しい。まず、漠然と目的地を考える。何処そこへ行って見たい。みのる君が何気なく希望を口にすると、カミサンは即座に賛意を示す。是非、行こう。実現可能性の可否なんかは検討しない。何とかなるよ。カミサンお得意の他力本願に押し切られて、今回は思い切って九州を目指した。前々から九州が二人の話題に上っていた事もあり、一昨年の出雲ドライブの実績もあって、みのる君も案外気楽に行動を開始した。折りしも暫定税率復活の日。影響をモロに受けてしまったが、政府と同じで決めた事は押し通す性分、中止なんて以ての外。
前夜9時半過ぎに関東地方の片田舎を出発、高速道路を西下、11時半に壇ノ浦パーキングエリア到着。関門海峡の向こうに九州を見る。なかなか良いものだね。一晩走り続けた千㌔の行程。はるばる来たと云う感慨もあって、カミサンもしばし海峡に見とれる。九州を直に目撃するって、意外に感動的だ。
井沢元彦が「逆説の日本史」の中で宇佐神宮の重要性に触れているが、読後、一度は訪ねてみたい場所のひとつになっていた。今回の九州旅行の目的の第一は宇佐神宮と高千穂。古代日本史に登場する場所で、いい加減ながら一家言を持つみのる君にとって、是非、見ておかねばならぬ場所。仕事をリタイアしてからゆっくり巡ろうと思っていたけれど、少々の無茶で訪問可能。先年の出雲ドライブで自信を付けていたから、ほぼ計画通りに事が運んだ。
カミサンがモタモタしていたお陰で出発時間が遅れ、到着時間にズレが生じたものの、距離は事前調査とわずか13㌔の違い。千㌔以上移動して13㌔のズレは誤差の範囲内さ。ちなみに、ここまで一切渋滞に遭わず。移動は深夜に限る。
応神天皇、神功皇后、比売神の三柱を祭っている宇佐神宮は全国四万有余の八幡宮の総本山。ゴールデンウィークの最中でもあり、さぞ賑わっているだろうと想像していたけれど、意外に観光客の姿は少なかった。むしろ疎ら。拍子抜けだった。日本創世記の記念碑とも云える場所なのに、商売っ気が無いのか、超然を旨としているのか、はるばる訪ねた客に素っ気ない。客も然る者で、足早に一巡してお仕舞い。宇佐の空気に触れただけで十分。国東半島も一回りしたかったが、諸般の事情があって断念。次の機会を待とう。
貞享5年(元禄元年)、芭蕉45歳の句。
草臥れて(くたびれて)宿かる比や藤の花
夕刻、いい加減歩き疲れた。そろそろ宿に入る時分、眼前に藤の花を見る。芭蕉が伊賀の門人の惣七に宛てた書簡には「ほととぎす宿かる比の藤の花」。旅の疲れを癒してくれる花の景色。ホッとした芭蕉の心境かな。「草臥れて」なんて、何気なく発する話し言葉を使っている所がミソ。疲れた、疲れたと云って、その辺のベンチに腰を下ろすと、目の前に今が盛りの藤の花がある。こいつは好いや、つい顔がほころぶ。そんな情景。「宿かる」は「宿を借りる」と云う意味。つまり、そろそろ夕方と云う時間帯。朝から歩いていれば草臥れる時間だ。
普段、ネスカフェの「プレジデント」を飲んでいる。一ヶ月で空にしてしまう程の勢いで飲むが、以前は二週間程度で空にしていた。インスタントコーヒーにしては少々高価なので、少し控えめにして、今は毎日7、8杯かな、砂糖なんか使わないから、カップに適当な分量を落とし(スプーンは使わない)、お湯を注いで出来上がり、お茶代わりに飲む。封を切った時の贅沢で濃厚な香りが良い。
半年程前かな、意匠が変わって、フタの部分に余分な突起が付いた。風味を逃がさない工夫だろうけれど、最初はこの突起が迷惑至極だった。突起が内ブタを破いてしまう。気を付けないと内ブタに突起が当たって、機密性を保持するはずの内ブタが無残にもボロボロ状態になってしまう。突起がナイフ状の役割を果たして、頑丈な内ブタに穴を開けてしまう。閉め方のコツを覚えるまでに、4、5個も費やしてしまった。今ではそんなヘマをしないが、初めの頃は大分往生したものさ。デザイン変更も大事だろうけれど、もう少し使いやすい工夫も必要さ。閉め方にコツが必要なんて代物は商品価値が下がるってものだ。
延宝9年、芭蕉38歳の句。
愚にくらく棘(いばら)をつかむ蛍哉
「愚に暗い」とは自らの愚かさに気付かないと云う意味。ホタルを捕まえようとして、うっかりバラを掴んでしまった。イタッ。間抜けだな。痛い、痛いと手の甲を舐めている姿が想像出来る。ホタルを鑑賞している時間だから、当然、周囲は暗い。足元にご用心と云った暗闇で、誰もが経験しそうな迂闊な失態。
明日の早朝、3時56分から58分にかけて、ISS(国際宇宙ステーション)がほぼ日本列島を南西から北東へと縦断する。好条件。
夜明け前の太陽の光を受けたISSが音もなく、静かに意外に早いスピードで上空を移動するのが見える。場所によっては、真上に近い所を通過する。
朝が早いから(朝とは云えないか)、気合を入れないと見られない。先々週辺りは日没後に見えた。その時は職場の連中にも報知し、表に出てワイワイガヤガヤと一緒に空を見上げ、初めて人工衛星を見た連中が一様に感嘆の声も上げた。一見の価値あり。突然に光り出す。真上に近い所を、明るい星みたいのが北東方向に動いていれば、間違いなくISS。ぼんやりしていると見逃してしまう。58分過ぎには太陽の光が当たらない位置になって、見えなくなってしまう。曇っていれば見られない。時の運もある。
延宝4年、芭蕉が33歳の句。
夏の月御油より出でて赤坂や
東海道五十三次の宿場の中で、御油(ごゆ)と赤坂(いずれも愛知県豊川市)の間は最も短い。2㌔にも満たない十六町だったそうだが、この短い距離を夏の月の短さに例えた句。夏の月は短いな、まるで御油と赤坂の間みたい。
ちなみに、当時、御油や赤坂は風俗営業が盛んな宿場だった。わずか2㌔も離れていない宿場町で派手な客引き合戦が繰り広げられていた(広重の「東海道五十三次」の「御油」には強引な客引きが描かれている。「赤坂」は女が化粧する図が書き込まれており、街道の賑わいを彷彿とさせている)。そんな宿場を33歳の芭蕉はどんな心地で歩いたのだろうか。呑気に月をめでていた訳ではあるまい。執拗な客引きにウンザリしたか、ついつい誘いに乗ったか。悪所が評判の宿場町での芭蕉の心境を想像するのも面白い。
今日から3、4日間パソコンとは無縁の生活に入る。ブログ更新は意地でも維持するつもりながら、生憎、この間はパソコンに接する機会がほとんどないから、コメント等の対応が出来ない。ご了解を。PCを捨てて街に出よう。と云う魂胆。とは云え、ガソリンの値上がりはちょっとキツイぜ。
昔、受験雑誌に詩の投稿欄があって、寺山修司が選者を受け持っていた。みのる君は受験勉強の合間に、しばしば詩を作ってはこの雑誌に送り付けて、選ばれる日を楽しみにしていた。が、結局、一度も雑誌に掲載されたことは無かった。これが理由で寺山修司が嫌いになってしまった。好みって、意外に単純な理由で決まってしまう。
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